名づけ候補を供養したい
ローゼンツヴァイク曰く、「固有名詞はきのうときょうをつないでいる、ただひとつの保証」らしい。
この話は以前読んだ本の記事で言及しているところだけれど、名前なんてのは親がいくら意味を考えたところでほとんど意味はない。
なぜなら「カント」が生まれた瞬間は、その「カント」という名前に偉大な哲学者という意味はつかないからだ。ただの「カント」。それ以上でも以下でもない。
理論上で言えば、だ。
しかしながら、例えば僕の名前、「僕はいつまでも飽き性ちゃん」は「僕は」「いつまでも」「飽き性」「ちゃん」で構成されている固有名詞である。
どの言葉も単体で意味を持ち、「エンタメジャンキー」、「出産したばかりの経産婦」だのの意味はつかないけれど、「飽き性」であることや一人称に「僕」を使っていそうだななどとバイアスはかかるだろう。
この記事は、そんなバイアスと一晩中戦った帝王切開直後の名づけの顛末である。
帝王切開手術が終了して一時間後の話
術後、15時半から翌5時半まで13時間もの間、10分寝ては夫とメッセージのやり取りをしていた。
入院当日まで齧り付いていたエルデンリングを全く触らなかった夫と、麻酔切れてない中すでに原神をプレイしたい僕の話、その他あまり大切ではない会話ばかりしていたように思う。
そんな中、最もホットな話題は僕らのチームに新加入したメンバーの話題で、特に名づけの最終段階について僕に思うところがあり、夫につらつらとメッセージを送り続けてしまった(コミュ障な僕は友だちや知人とのやりとりを意図的に用事のみにしているがために、私的なやりとりに常に飢えている)。
余談だが、この時のやりとりが癖になり、一日中途切れなく一週間に渡って即レスを続けた結果、夫が少々疲弊する事態となってしまった。(こちらについてはまた後日。)
さて、名づけについて話題を戻す。
そしてこの時までに煮詰めた、僕の名づけの条件について以下のように整理してみる。
・予測変換ができる
・読める(常用漢字)
・イニシャルがかっこいい
・中性的
・無限、無数の可能性、自由さ、不定形のイメージ
これらを加味して、例えば透(とおる)などが候補に上がっていたのだけれど、これは上記の条件をクリアしていながら、春雷を感じる雷神トールっていうのがかっこいいなというのが候補の理由である。
このような感じで条件にプラスアルファ、彼の生まれに関わる要素(春、3月、アクアマリン、新緑、珊瑚など)や単純に音が気持ちいいものを持つ候補を20ほど見繕い、夫に共有。
ついに2つの候補にまで至ったのは手術の2、3日前であったと思う。
(なお、透は「なんか違う」という夫のよくわからない第六感により却下された。)
エルデンリングを楽しみながら、あーでもないこーでもないと話し合うも平行線なため、「顔見て決めよう」と月並みな先送りをして当日を迎えていたのである。
ものすごく気に入っていた、千洋(ちひろ)という候補
手術当日、病院に向かう道中にも僕らは名前について話し合っていた。
僕の考えた「千洋(ちひろ)」と夫の考えたもう一つの名前が最終候補に残ったのは、どちらも条件をクリアしていながら字面が大変良く、どうしても入れたかった「無数の可能性」のイメージにぴったりだったからだ。
特に千洋は、僕の中ですでに本決まりになりつつあり、この道中の話し合いも夫をいかに説得するかしか考えてなかったように思う。
だって、千洋だよ。おじさんになってもそれなりに格好がつく字面でありながら、あだ名はちいちゃんである。
なんて可愛いあだ名なんだろうか。絶対に呼びたい。中学生くらいになってからうっかりちいちゃんと呼んで、声変わりしかかってる声で非難されたい。
名づけに興味がないと思われた夫だったのだが、僕が思うより自分の考えた名前に愛着があるらしく、案外抵抗されたことも僕の中で意地になる理由の一つだったかもしれない。
とはいえ、僕との再三の話し合い(もとい説得)に徐々に牙城が崩れ始め、病院に着いた頃には「もうお前の中で千洋になってるじゃん」と今にも白旗を上げそうだった。
産むのは僕である。痛い思いをするのも、面会のない中で新しい名前を何度も呼びながら世話をするのも僕である。
であれば、僕が決めたっていいと思うんだ。
千洋、すごくいい名前だと思うのだよね。
しかし彼の誕生日は3月11日である
術後ほとんど間もなく、カンガルーケアをした。
カンガルーケアとは出産後すぐに、新生児と母親の肌を触れ合わせることで病への抵抗力を上げるという賛否両論な民間療法である。
まあ、助産師さんも「カンガルーケア、やる?」のフレーズを言う時半笑いだったし、現在は民間療法というより産後のお楽しみイベントとしての側面が強いみたいだ。
「せっかくなんで、やりましょうか」
特にカンガルーケアの希望もなかったが、やったらやったで結構よかった。
よくわからないまま、何か温かいものが下にある状況に狼狽する子を見るのは面白いし、可愛かった。
そして僕は、まだ決まりきっていなかった、でも僕の中で決まりつつあった名前を呼ぶこの瞬間に、気づいてしまったのだ。
千洋の洋には「大きな海」という意味があることに。
一生気づかない、あるいは意に介さないのが一番幸せだろう。
3月11日生まれだからといって海にまつわる名づけをしてはならない、なんて窮屈すぎる。
でも僕は気づいてしまった。アンサイクロペディアがいくら、「3月11日は至って平凡」と言ったって、多くの日本人にとって「特別な日」として連想される日なのは間違いない。
ましてや津波で悲惨な目に遭った人が大勢いるのである。名前が千洋だけ、誕生日が3月11日だけ、ならまったく問題じゃない。
問題は、3月11日生まれが千洋という名前であることだ。
夫も、他の家族も、助産師さんだって「気にしすぎだ」と言ってくれた。
僕もこの先の人生で3月11日生まれの千洋さんに会ったとして、「非常識な」なんて思いもしないだろう。
でも、自分の子どもだから気になってしまう。
もしも、将来愛する人が津波の被害者で名前のせいで辛くあたられたら?
もしも、将来就職する時に面接官が気にする人だったら?
もしも、もしも、もしも。
マタニティブルーズがあるとしたらあの時だったように思う。
正直に言おう。僕はどうしても「千洋」と名づけたかった。
でも悲しいことに、気づいてしまった事実を無視するなんてできなかったのだ。
はじめてのお着替えで事態は急展開に
産後2日の3月13日。まだまだ傷も痛く、立ち上がるだけで5分以上かかる中、僕は深夜もかかさず息子氏の元へ通って乳を含ませた(帝王切開時の母児同室は次の日からで、それもほとんどの人が回復するまでパスするらしい)。
僕自身、到底母性が強いタイプとは未だ思えないのだが、息子氏は本当に本当に特別可愛い。
何度も何度も「疲れてない?」「大丈夫?」「無理しなくていいんだよ」と会う助産師さんのほとんどが僕に声をかけてきたのだけれど、これがマジで全然つらくない。
むしろ3時間ごとなのがもどかしくて、会えない寂しさがつらかった。元々睡眠時間が短くても平然としているタイプだったからかもしれない(でも寝るのは大好きさ!)。
それに、人間という生きものへの知見を深める助けになった。
すごい。未熟な状態で生まれる珍しい動物だと思っていたけれど、実際目の当たりにすると解像度が爆上がりする。
それでもなお、底が知れないのだからすごい生きものだと思う。
要は、人間の飼育が面白くて面白くて、体力の回復など待つのがもったいないと感じたのだ。
着替えさせるのも楽しい。
吐いたミルクで湿っていた産着を替えてやると、ちゃんと気持ちよさそうな顔をする。感覚はどこまで自覚しているのか、つぶさに観察して読み取ろうとする作業が楽しくて仕方がない。
で、またもや気づいたのだ。
それから、僕は笑ってしまった。加えて、写真を撮って送った。
夫と、両親と妹とやってるグループに。
「ねえ、産着に名前書いてあるんだけど!」
書いてあったのだ。
偶然にも、千洋ではないもう一つの候補、夫の考えた方の名前がはっきりと産着のタグに。
どうやらこの産着はレンタル、あるいはクリーニング会社が管理しているらしく、その会社名がたまたま夫の考えた名前の候補と同じだったのだ。
その時、十数時間前に僕の腹を切った先生の言葉を思い出した。
「この子はこの日に生まれたいんでしょう」。厳密に言えば先生のスケジュールの都合上、3月11日に手術だったのだが、確かにこの人が逆子から移動すればこうはならなかったとも言える。
千洋って呼びたかったという思いはその産着を見た瞬間、すうっと消えた。
逆に、もはや彼の名前はその名前でしかないように思えた。
妹は「千洋もいい名前だと思うけど、これって運命じゃね」とメッセージを送ってきた。
僕もそう思っちゃったよ。
名前なんてどれでもいいよ
だって可愛いから。
ちいちゃんも可愛いけど、今呼んでる名前の方がずっと、ずーっと可愛い。
それは彼の名前だからだ。彼の名前より可愛い名前なんて、夫の名前くらいしか存在しない。
早く家に帰って、夫と息子氏の再会でてぇてぇしたいなぁ。
あと5日。長いなぁ。
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