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スーパー戦隊シリーズパイロットの分析・批評実践(3)『星獣戦隊ギンガマン』1・2話編〜「80年代戦隊=テーゼ」と「90年代戦隊=アンチテーゼ」の「止揚=アウフヘーベン」により蘇った戦隊神話の最高峰〜

『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』と来たら当然今回は『星獣戦隊ギンガマン』のパイロット分析・批評となるわけだが、本作は私とスーパー戦隊の付き合いを決定的なものにしてくれた
『鳥人戦隊ジェットマン』で改めて神話としての昭和ヒーローが「死」を迎え解体された後、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』と「ファンタジー」が新たな戦隊のフォーマットになる。
しかし、「ジェットマン」以降もたらされたアメリカンニューシネマ・ヌーヴェルヴァーグに相当する数々の革命・革新はそう長く続くものではなく、『超力戦隊オーレンジャー』でスーパー戦隊は再びガクンと落ち込んでしまった
それは4.5%という当時としてはあり得ないほどに低い平均視聴率に反映され、私自身の戦隊への熱も冷めて『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の頃には戦隊シリーズへの愛着も薄れてしまう。

そんな中、本当に奇跡のタイミングで作られたのが『星獣戦隊ギンガマン』であって、久々に「こいつは面白いぞ!」というのが画面越しに伝わる作品だったわけだが、当時は作り手のことなんか気にしていなかった。
今であれば簡単に誰でも調べられるからプロデューサー・脚本家・演出家などを見て作家性を語れるが、当時は「作家」ではなく「作品」として見ていて、髙寺成紀や小林靖子の名前を意識したのはネットが普及してからのことである。
だから「あの豪華製作陣が素晴らしい作品を作った!」というよりは「この素晴らしい作品を作ったのがたまたま豪華製作陣だった」のが私の認識・実感であって、同じ小林靖子メインライターでも『未来戦隊タイムレンジャー』以後とはそこが決定的に違う
「タイム」「シンケン」「ゴーバス」「トッキュウ」はおそらく「小林靖子だから」というネームバリューや作家性で脊髄反射のように「靖子にゃんが書いてるんだから神作確定!」という盲目的なゴマスリで評価する信者が多く散見される。

しかし、本作はそのようなネームバリュー・作家性よりも「作品総体としての素晴らしさ」が勝り、髙寺成紀をはじめとする全ての作り手の連携・戦略・段取り・運・縁・タイミングが気持ちいい程に溶け合っていた。
こんなに素晴らしい一体感を映像体験として持てるのはそれこそ『鳥人戦隊ジェットマン』以来だが、少し下世話な例えでいうと「ジェットマン」は童貞喪失に近い戸惑い・驚き・不安・喜びなどいろんな感情が複雑に入り混じる感覚だ。
それに対して「ギンガマン」は原体験としてのスーパー戦隊を体験し1度離れて別の体験を蓄積した状態で故郷に帰ってきたら高いステージに辿り着いた理想の状態で再会したような絶対的安心感が勝る。
そんな本作は一体戦隊シリーズの歴史においてどういう位置付けで、またどのような立ち上がりだったかを以前よりも更に高い思考の抽象度と解像度で論じていこう。


「80年代=テーゼ」と「90年代=アンチテーゼ」の「止揚=アウフヘーベン」により生まれた最高の神話

3日前のこちらの記事で私は哲学的な観点から俯瞰すると『電撃戦隊チェンジマン』が帰納法、『鳥人戦隊ジェットマン』がその逆の演繹法、そして『星獣戦隊ギンガマン』が両者を統合した弁証法だと述べた。
「チェンジマン」が「人間」はいかにして「ヒーロー」に「変化」するのか?をメカニズムと共に導出し普遍文法にまで昇華した「帰納法」の傑作であり、「昭和戦隊最高傑作」の称号を恣にしている。
その「チェンジマン」が構築した普遍文法を大胆なアプローチで脱構築し、昭和ヒーローの「死」を司り、意味解釈のずらしを徹底することで戦隊神話を破壊した「演繹法」が『鳥人戦隊ジェットマン』だ。
つまり「チェンジマン=テーゼ」、「ジェットマン=アンチテーゼ」として、その相反する2つのテイストを矛盾なく止揚=アウフヘーベンさせて高次元の神話=ジンテーゼとして蘇らせたのが『星獣戦隊ギンガマン』である。

まあこんな程度のことは80〜90年代戦隊をよく研究した上で哲学を勉強し関連させれば誰でも考えられるだろうが、本作で実現したこの弁証法というべき役割は本来であれば『超力戦隊オーレンジャー』が行う筈だった
本作も「オーレンジャー」も「古典的デクパージュへの原点回帰」を目論んでいたことは共通していたが、実際の映像作品としての出来栄えはもう比較するのも可哀想なくらい本作に軍配が上がったのである。
要因は色々考えられるが哲学的な構造の観点から行けば、「オーレンジャー」に欠けていたのは「ジェットマン」以降が示したアンチテーゼの作風も取り入れ反映させることであった。
ただ先祖返りして昔の軍人戦隊をやればいいのではなく、「ジェットマン」が提示した「ヒーローだって所詮は人間である」という「弱さ」の入れ方や「真のヒーローになる」は最低でも入れなければならない。

髙寺成紀は『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の2作でその「ジェットマン」が提示したものを「等身大の正義」として言語化し、新たなヒーローものの可能性を切り拓いた。
「ジェットマン」によって一度解体され「オーレンジャー」で完全に死したと思しき戦隊の「神話」を本作がどのように蘇らせたか、その仕組みの構造を分析・批評するのが眼目である。

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