『ブレードランナー』(1982)を今の時代に論じることが難しいのは作品そのものではなく「後世に与えた影響」の方が重要だから
昨日の「ギンガマン」のエピゴーネン大量発生の記事で『ブレードランナー』(1982)を引き合いに出したが、これはちょっと語弊があったので、釈明ではないが補足説明をさせていただこう。
『ブレードランナー』(1982)に関しては正直私自身もまだ判断しかねるところがあり感想・批評を書くのをペンディングしているが、これには大きな理由がある。
それは作品そのものの質や出来不出来といったことではなく「後世に与えた影響」の方が大きな意味を持つ作品だからであり、いわゆる「見ているものの現在にどれだけ影響を与えるか?」とは違う問題だ。
どちらかといえば日本で『ブレードランナー』(1982)に近い位置付けの作品は『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の方かもしれない、後世に与えた影響や後の動きなども含めて考えると。
ちなみに私自身のスタンスは1982年に作られたインターナショナル版(日本ではこちらで公開されたので)を支持しており、後のディレクターズカット版やファイナルカット版は支持していない。
なぜかというと、こういう後出しジャンケンを許してしまうと「じゃあ先発で作られたオリジナル版の方は間違いだったのか?」という話になってしまうからである。
これは正に「エヴァ」と全く似た構造になっていて、「エヴァ」に関しても私は庵野監督がリメイクした新劇場版よりも旧作のテレビシリーズ(の特に前半)の方を高く評価しているタイプだ。
新劇場版の方は確かに物語の整合性もきちんと取れているが、ぶっちゃけ出来上がったフィルムそのものが見ている側の感性を揺さぶることがほとんどない、ただ出来がいいだけのものとなってしまった。
私は『ブレードランナー』(1982)の直撃世代ではないので原体験はないのだが、リドリー・スコット監督が完成品だと自信を持っているファイナルカット版よりも不完全なインターナショナル版の方が遥かに面白い。
これは決して懐古厨としてそういっているのではなく、インターナショナル版の方がフィルムにこもっている熱量や体感する温度があったし、あの荒削りながらも斬新な世界観とビジュアルを生み出した偉大さがある。
それに対してファイナルカット版は確かに物語の辻褄合わせや映像技術の解像度も含め最新のテクノロジーで綺麗にはなっているが、ぶっちゃけ今更感が強いしいかにも「どうだ、上手くできたろ?」と見せつける感が大嫌いだ。
同じ理由で私は『シン・エヴァ』も大嫌いであり、あれも結局は庵野監督が当時上手く出せなかった碇シンジの物語に綺麗な落とし所をつけたつもりだろうが、やはり「どうだ、上手くできたろ?」感が見え透いている。
私は映画において完成度の高さや監督の意図した通りにできたかどうかなんてのは重要なことではないと思っている、何故ならば作品というのはそれを世に放った時点で作り手から切り離された独立生命体だからだ。
それが監督にとって本意であろうが不本意であろうが、世俗に向けて公開された時点で既に「生き物」として存在しているのであって、それを加工して後出しジャンケンで「こっちの方が完成品です!」はいかがなものか?
あと『ブレードランナー』において大問題なのはインターナショナル版と異なりファイナルカット版では何と主人公のデッカードまでがレプリカントであったという余計な後付け設定ができている。
これだとむしろあの作品の世界観・物語が台無しになってしまうのではないかと私は思う、何故ならばデッカードは戦いに疲れ果て足を洗った厭世的な主人公として描かれているからだ。
ジャンプ漫画であれば緋村剣心に近い戦いが嫌いなアンチヒーローとして描かれていて、なおかつあの世界では人類がレプリカントを支配し使役しているという「メトロポリス」(1927)の換骨奪胎といえる社会である。
そんな中で、その人類代表と言えるデッカードが望まぬ戦いを強いられながらもレプリカントとの愛を育み運命に翻弄されながらも立ち向かう悲劇性があったからこそ面白かったのだ。
確かにリドリー・スコット監督にとってそれは不本意であったかもしれないが、不本意だろうが荒削りだろうがあの監督の意図すら超えたハイブリッドな斬新さこそが魅力である。
だからこそ当時あの作品に魅せられた多くの映像作家がこぞってエピゴーネンを生み出してしまうくらいにSF映画の中における『2001年宇宙の旅』以来ともいえる転換点となったのだ。
それをデッカードまでがレプリカントでしたみたいなオチにするとあの世界観や物語が根底から破綻してしまうし、レイチェルと育んだ愛もただの茶番になってしまい、全く別の話になる。
そのやってはならない禁じ手をスコット監督はやってしまったわけで、だから私自身はファイナルカット版は表面が綺麗なだけの粗悪品という通販番組にありがちなものになってしまった。
これは「エヴァ」もそうだし、他にも富野監督の手で勝手に改変されてしまった新訳「Zガンダム」やサイヤ人の定義を根本からブレさせてしまった『ドラゴンボールマイナス』がそうであろう。
一度完結したものを作り手自らが不本意だからと余計な後付け設定を足して原作の根幹にあった魅力を台無しにしてしまうという例はごまんとあるが、そういう理由で私は1982年に公開されたものをこそ『ブレードランナー』だと思っている。
ここまで話してようやく本題に入るが、『ブレードランナー』(1982)に関しては今本当に議論するべきは作品の出来不出来や解釈といった部分ではなく「後世に与えた影響」の方ではないか。
作品論としては昨日も紹介した加藤幹郎の論序説で決定打が出てしまったのだから、今更新解釈が出てくる余地もないし、かといって後付けででてきたファイナルカット版を褒め称えても然程意味はない。
それならば、後続の作品が如何にしてこの『ブレードランナー』を模倣していき、その後のSF映画がどう変質していったかという歴史を論じていく方が今はとても重要な気がする。
わけても押井守が手がけた『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)はほぼ直系のエピゴーネンなので、まだここをきちんと論じたものは日本でも海外でもいない。
例えば原典がレプリカントというアンチヒーローが受動的に戦いの世界に巻き込まれていく悲劇的なアンチヒーローの作劇であるのに対して、「攻殻機動隊」の方は能動的に戦いに挑む女性主人公に変わっている。
またその相棒となるキャラクターの恋愛に関しても、デッカードとレイチェルが非常にダイレクトかつ肉感的な直球の愛なのに対して、バトーと素子のそれはどちらもアンドロイド故に肉感性がなくより間接的な愛だ。
支配構造も人間とアンドロイドの関係性が逆転した構図になっていて、最終的に素子は自身の肉体までをも喪失するというところまで行っており、これは更に洗練された世界となっている。
そういう部分を論じていき、押井守が正しい意味での後出しジャンケンで『ブレードランナー』(1995)をどう超えていったかを論じていくだけでも内実のある批評となるだろう。
ところが、まあ日本の映画批評もアニメ批評もまだまだ遅れていて弱いので、今の時代こそそれを論じる動きが出てきて欲しいところではある。
『ブレードランナー』はもはや単なるSF映画の革新というに留まらず、それ自体が1つの歴史を生み出してしまうくらいのものとなった。
サブスクリプションで比較的色んな映画を同時並行で見られるようになったのだから、そういう横に並べた時の比較論もやり易いのに誰もやらない。
やはり作品に対して常に批評というものは遅れて出て来るものなのだろうか。