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時代の変化を受け入れることは決して世に蔓延る現象を無批判・無反省に肯定することではない!

どうやらまた昨日、以前の「ブンブンジャー」の批判記事にコメントしてきた人が昨日の記事にもコメントしてきたわけだが、そういう批判がますます私の思考を活性化させてくれるのだから、ありがたい限りである。
昨日の人の言い分は概ねコメント返信した通りなのだが、その中で一つ私の核心に触れるようなコメントがあったので、今回はそれに関する見解を示しておこう。

「今は令和です。クロサキさんが必要以上に持て囃してるギンガマンが作られた平成は終わりました。時代が変われば僕らも変わらないといけません。クロサキさんも令和に切り替えましょう。」

まず1つ目の「クロサキさんが必要以上に持て囃してるギンガマンが作られた平成は終わりました」だが、確かに「平成という時代は終わった」が「平成に作られた作品が正しく批評されている」というわけではない
このコメントの時点で二重の過ちを犯しているのだが、1つ目は私が「今の作品を貶して昔の作品ばかり褒める懐古主義者」と思い込んでいる点にあるのだが、それは大きな勘違いであると声を大にして言わせていただく。
確かにスーパー戦隊にしろロボアニメにしろ、私は昔の作品を褒める傾向が多いが、そもそも私は過去の作品を決して「過去」などではなく「現在」として見ており、その中でも尚自分の中で「ギンガマン」を含む戦隊の三大傑作は私を刺激し続ける。
これは決して他人から見て正しいとかネットの盛り上がりがどうとか、はたまた世間一般にどう評価されているかとかとは関係なく、自分が本当に心底からいいと今もなお胸を張っていえるから褒めているのだ。

それに「昔の作品を過剰に褒めるな」というのであれば、例えば蓮實重彦が近年出版した以下の書物はどうなるのか?

それこそ映画史において間違いなく古典的作家の一人であるジョン・フォード論を令和の世に著書として送り出しており、さらには「ショットとは何か?」という著書も出している。
映画批評家として決定的だった彼は時代に左右されることのない(とはいえ、鑑賞のスタイルとしてはもう流石に古いが)批評を改めて彼は書いてジョン・フォードを擁護した。
かつての『監督小津安二郎』がそうであったように、既存の紋切型の言説で固まった評価しかされていなかった小津安二郎なりジョン・フォードなりを彼は「いや違う、そうじゃない」と再評価している
そしてそれは映画に限らず、アニメ・漫画・特撮ら昭和以降に生まれたさまざまなジャンルのエンターテイメントに関してもそうであり、昔に流行った作品が必ずしもその後に残るかは時の試練となるだろう。

だが、その時の試練とは決してただ無批判・無反省に受け入れるのではなく、自ら作品に対して真摯に問いかけて「既存の言説ではこう言われていたが、これで果たしていいのか?」と問い直すことから全てが始まる。
私がなぜこうも過剰に「ギンガマン」を褒めまくるのか、徹底的に擁護しているのかというと、既存の言説で言われたことや自分が過去に評価したものとは今現在全く違う作品に見えているからだ。
そしてそれを改めて言語化することで形にし、スーパー戦隊の歴史という相対評価も踏まえて、それに相応しく捉え直しをしてみたいからであり、ただ自分が好きなだけだったらこんなには褒めないだろう。
その思いは四半世紀以上経った現在でも変わることがないどころかますます強くなっており、今更その程度のことで折れるようなものではなく、間違いなく私の血肉になっているものである。

つまり、昔は普通の人気作・名作として評価されていたものを改めて令和の世にアップコンバート&アップデートすることで作品そのものを生まれ変わらせてみたいのだ。
それは決して時代の流れだとか他者の評価がどうとか関係ない、あくまでも私個人がそうしたいからという思いからそうしているのが強く、でなければもっと早くに諦めている。

そして2つ目だが、「時代が変われば僕らも変わらないといけません。クロサキさんも令和に切り替えましょう」に関してはコメントで「それは釈迦に説法だから聞く必要はない」と答えた。
ただ、私は決して相手に対する拒絶の意思だけでこのように答えたわけではなく、私の中で明確にこの言葉に対して「違う」といえる根拠がある。

それは、時代の変化の全てが決して良いものばかりではないということだ。

例えば、私が大駄作と批判した「キングオージャー」について、コメ主はネット流行語ができたり2週連続でトレンド1位になったりしたとXでの反響を述べていたが、私に言わせればネットの反響なんて大半信用ならないものばかりだ。
しかもそういう「都合のいいニュース」ばかり並べ立てるくせに、「キングオージャー」について最も有名な「脚本家の場外乱闘」「スペースでの炎上」については1ミリも話題にしないのだからちゃんちゃらおかしい

私はXをやめて1年以上経つので最近知ったことだが、どうやら脚本家の高野水登がスペースで「ロボだけが商品じゃない」などと作り手として言ってはならない失言の数々で炎上している。
呆れたものだ、戦隊ファンならばともかくプロの作り手の一人であるはずの脚本家が自社の商品・作品を傷物にするような失言をして品性を著しく傷つけてしまうとは……これも、時代の変化として受け入れろというのか?

まあ高野に関してはここだけではなく、そもそも雑誌のインタビューで「近年の戦隊シリーズは「ゼンカイジャー」「ドンブラザーズ」と1話から仲間が揃わないのが当たり前なんだ」などと訳のわからないことを述べていた。
以前にも書いた通り、そもそもスーパー戦隊シリーズにおいて仲間が1話で勢揃いしない戦隊など『鳥人戦隊ジェットマン』『忍者戦隊カクレンジャー』でやっていたことであり、決して珍しいものではない。
無知にも程があるのだが、これを決して「作り手が知らなかったなら仕方ない」で済ませてはならない、今はTTFCや東映特撮YouTubeなどサブスクでいつでも過去の戦隊を見られる視聴環境にあるのだから。
その上でこのような失言を数々しているのはもはや故意犯としてわざとそういうことをしているとしか思えず、こんな無作法・非常識を「令和だから許せ」というのは明らかな筋違いである。

なぜ話題に出さなかったのかは簡単であり、そんな話題を持ち出すと途端に都合が悪くなってしまい、私に見透かされてしまうと思ったからだろう。
だから私も言わなかった訳だが、鬼滅キッズの例といい、今回の「キングオージャー」における作り手の場外乱闘といい、もはや「醜悪」の領域すら超えた地獄絵図が跳梁跋扈している

コメ主に限らず、人を懐古厨のような扱いをして「新しいものを受け入れろ」だの「時代は変わっていくんだ」だのといった手前勝手なことを言い出す輩の辞書に「温故知新(故きを温めて新しきを知る)」の文字はないのだろう。
とにかくなんでも革新的であれば無条件に良しとし、逆に古典的であると脊髄反射で悪きものと見做す風潮はどうしたってなくならない、それどころかむしろ近年益々加熱しているだろう。
しかしそれは決して世に対する問いかけや内省があって、哲学をしていく中で出てきた深みのある言葉ではなく、周囲の現象だけを見て安直に解釈し自分で思考することを放棄している無頓着さの現れに他ならない
何でもかんでも古典を否定すればいいというわけではない、プラトンの「国家」や孫子の「兵法」、あるいは老子の「論語」のように、たとえ古くても十分に現代に通ずる古典の名作はいくらでもあるではないか。

確かに今は「SNS大戦国時代」なんて言われるくらい200年に1度のレベルで社会の構造が物凄く劇的に変化しており、「組織」「国家」というものがどんどん衰退して「個人」が台頭しようとしている
そんな中で一番気をつけなければならないのは「自由」と「無責任」の履き違えであり、また「新しい価値観を受け入れる」ことと「流行りに流される」ことの違いを弁えて行動することだ。
そもそも私に対してだけではなく、こういういかにもウケのいい綺麗事っぽい何かをほざく手合いは作品から何も見出してはおらず、適当に寛容っぽいことを言って自分が正義の味方にでもなって私を論破しているつもりなのだろう。
しかし、芯の部分に「自分はこういうのが好き!」「俺はこういうところにこだわりがある!」という軸がないから言葉に説得力が生まれず、その言葉を支える信念も脆弱なのだ

そんなに私に好き勝手書かれて否定されてるような気分に襲われているというのなら、自分の語彙力と文章力を鍛え上げて全力でそのシリーズを擁護し、私の鼻っ柱をへし折るほどの圧倒的な批評を書いてみればいい
むしろ私はそういう動きが出ることをこそ期待しているのだが、それを自分でやるのは嫌だから私の書いてる文章に難癖をつけて自分側と同レベルに下げようとする醜い足の引っ張り合いに終始するのだろう。
過去にすでに評価されたものをもう一度自分の中で洗い出して「本当にそうなのか?」と疑問なり仮説なりを提示し、検証した上でその作品を自分の言葉で新しく生まれ変わらせること、これが本来の批評の役割ではないか。
そのための努力すらしないで人が書いたものにああだこうだ文句をつける程度のことなど猿でもできることなのだから、そんな奴らの言う綺麗事にすらならない文言などなぜ聞く必要がある?

今のように激動の時代だからこそ、決して目先に惑わされることなく本質を見極めて良し悪しを判断していきたいものだ。

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