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手塚国光と不二周助の関係は越前リョーマと亜久津仁のそれと似ているのではないか?

亜久津と不二の記事、そして手塚と越前の記事を書いていたところ、個人的に手塚と不二の関係は越前と亜久津のそれに似ているのではないか?と思いました。
要するに自分が喉から手が出る程欲しいものを全部持っていて、その人みたいになりたいのになれなくて、でも諦めるには勿体無い才能があるという「宝の持ち腐れ」であった不二と亜久津。
もちろん大きな違いはありますが、不二が手塚に対して抱えるものと亜久津が越前に対して抱えるものは本質的に似ているのではないでしょうか。
だからこそ不二は手塚のテニスに対して「憧れ」があり「尊敬」もしていて、そして亜久津は越前のテニスに対して「羨望」があり「嫉妬」があるのです。

不二と亜久津はそれぞれ「天才」「十年に一人の逸材」「どのスポーツでも頂点を目指せる」「怪物」と言われていますが、才能のみで何とかなってしまうために目の前のことに懸命になれませんでした。
しかし不二は手塚に、そして亜久津は越前に出会うことで「本物の天才」が如何なるものかを思い知らされ、我が身を恥じる思いを強いられるようになっていきます。
不二は純粋にテニスが大好きでテニスに誠実に取り組み強さを目指す手塚を尊敬し、彼を道標にして手塚のようにチームのために戦うことで何とかテニスを続けてきました。
つまり不二は手塚の「ファン」だったわけで、でも同時に部内の「仲間」でもあるからこそ決して「隣の芝生は青い」にならず「怪我が完治してないと負けるよ」と手塚に忠告もしています。

一方で亜久津仁にとっての越前リョーマはどう映ったかというと「テニスで成功した自分自身」、つまり生意気だけどテニスに対して真摯に取り組む期待のエースにしてダイヤの原石です。
そんな越前を亜久津は意地で叩きのめそうとしましたが、これは不二が手塚に抱えている一種のファン心理とは逆の「アンチ」の心理だったのではないでしょうか。
不二と亜久津は「才能の塊」であるという共通点がありながら、同時にテニプリにおける抵抗勢力というか「アンチテニス」みたいな存在といえるかもしれません。
それを2人とも自覚した上で不二は「自分みたいなのがテニスを続けていいのか?」と苦悩して諦めようとし、亜久津は実際にテニスを諦めました。

でも不二も亜久津もそれぞれ手塚と千石の差し金で何だかんだテニスから逃れることができず、くすぶった思いを抱えたまま宙ぶらりんの状態で過ごしていたわけです。
なんかこう考えると切ない話です、不二も亜久津も才能があるばかりにその世界から足を洗えず、かといってテニス以外の別の何かを見つけてそれに熱中することもできません。
正に思春期ならではのモラトリアムといったところですが、こう考えると不二も亜久津もそれぞれ手塚と越前の「光」が生み出したことで発生した「陰」だったといえます。
ファンとアンチというのは表裏一体で、不二は一番の手塚ファンで亜久津は一番の越前アンチですが、そういう歪んだ心理を向ければ向けるほど対象は皮肉にも離れていくのです。

それが表面化したのが新テニであり、不二は手塚がドイツに行くことで目標がなくなると思ったから手塚に負けることでテニスを辞めようとしました。
そして亜久津は越前に借りを返すことで越前の鼻を明かし、アマデウスに勝つことで都大会の時に持っていた「意地」を取り戻そうとしたのではないでしょうか。
しかし不二と亜久津のそんな歪んだ思いが生み出したものは結実することはなく、手塚は「道標は自分で作れ」と不二を厳しく突き放して不二の「偶像」であることを拒否しました
越前もまた亜久津には無関心でリョーガからはオレンジをぶつけられ、更にアマデウスや平等院から才能を認められてしまい益々テニスから逃げられなくなるのです。

不二と阿久津はその意味でとてもよく似ていて、決して弱くはなく強さのインフレに食らいつくだけの才能を持ちながらも、一端のテニスプレイヤーだと言うには烏滸がましい強者が身近にいます。
その強者はそれぞれ中学テニス界の「至宝」と「希望」であり、テニスにおいて迷いを抱えているものに光を照らして高みへ導いてくれる「テニスの神様」の権化でもあるのです。
だから不二はそれに後ろめたさを抱えてテニスを辞めようとし、亜久津はそんなテニスで本気でプロを目指す奴らの鼻を明かして後ろ指差して嘲笑ってやろうとしました。
許斐先生はそんな2人の歪みを決して許すことはなく、「所詮本気で打ち込んで真面目に頑張っている奴には敵わない」というメッセージを容赦なく2人に叩きつけます。

特に亜久津を見ていると、何だかネットで有名人を誹謗中傷しているアンチを見ているみたいで切なくなってきます、何でってアンチにとってはその批判する対象が羨ましくて仕方ないからです。
以前、亜久津のことを「ONE PIECE」で言うベラミーだと言いましたが、ベラミーにしろ亜久津にしろ頑張る人を後ろ指差してバカにするのは心根のさもしい証拠に他なりません。
皮肉にもその対象を叩くことによって逆説的に「私はその人のファンです」と言っているようなものであり、アンチしようとすればするほど深みにハマってしまうのです。
そうしていつか気付かされるのです、「本物には所詮敵わない」って……もっとも、これは亜久津だけではなく幸村・真田・跡部・白石も似たようなものではありますが。

勝友美社長が仰っているように、持って生まれた天性の才能だけで突き抜けられるものには所詮上限があって、そこから先の真のスターになれるかどうかはその人の「人間性」ではないでしょうか。
よく「芸能人の中でもトップスターはそうなるべくして生まれついてくる」と言いますが、手塚国光・越前リョーマ・遠山金太郎ら天衣無縫組は「人としての魅力」が違うのでしょう。
歌が上手いから、ダンスが上手いからアイドルになれるわけじゃないし、見た目の可愛さやカッコ良さもいずれ衰えていくものでありいずれなくなっていきます。
では何が大切なのかというと、心の中にある「思想」「信条」「哲学」であり、それがその人にどれだけ備わっているかによって応援されるかされないかが決まるのです。

そしてそれはテニスでも同じことであり、なぜ越前リョーマや手塚国光をプロや一流の指導者が放っておかないかというと、やはりテニスに対して真摯に誠実に、そして素直に取り組んでいるからでしょう。
その想いに加えて卓越したテニスの才能と持って生まれた身体能力など様々な要素が兼ね備わっているからこそ、それが眩い天衣無縫の輝きとなってそれが現れるのです。
だからどれだけ他の中学生が強くなって天衣無縫対策ができて無効化されようが、手塚国光や越前リョーマのようなテニスのスーパースターになれるのは天衣無縫の3人ではないでしょうか。
不二と亜久津はそれもわかっているからこそ、その位置に行くことができない自分に対するコンプレックスが奥底であったものと思われます。

だからこそ他の中学生も高校生も、そして観客たちも越前リョーマと手塚国光のテニスを応援したくなるわけですし、対戦相手は本質を問われ地金を晒すことになってしまうのでしょう。
やっぱりこうして見ていくと、最終的な決め手として大事なのは「才能」「努力」を前提とした上での「思い」であり、才能以上に意識の差が実力の差となって現れます。
不二も亜久津も、そして忍足や千石も今後伸ばしていこうと思ったら「才能」でも「努力」でもなく「思い」の部分をきちんと磨き上げることではないでしょうか。


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