まだ学校教育の英文法はこんな教え方をしているのか!?「時・条件を表す副詞節では未来のことでも現在形」という解説が招く誤解を検証
さて、前回までで受験体験記や高校時代のことを書いていたら、久々に大学受験の動画をいくつか漁ってみたが、今回気になったことは英語である。
念のため言っておくと、私は一応言語学を専門として卒業しているので、英文法に関しては様々なことを4年間で勉強してきた。
まあそのせいか、今でも英語教師になった友人たちから色々質問や相談がメールで来るのだが、その中の1つが「時・条件を表す副詞節」についてである。
どうやら英語を教えていると、生徒からの質問で「どうして時・条件を表す副詞節では現在形を使うのですか?」がよく来るらしい。
私でさえも同じ質問を学生時代にしたことがあるのだが、これをきちんと英文法の本質を捉えながら回答できた先生がなかなかいないようだ。
上に武田塾さんとでんがんさんのチャンネル、そして元予備校講師として有名なもりてつさんのチャンネルでも同じような解説がある。
「時・条件を表す副詞節では未来のことでも現在形で表す」としか説明されておらず、それが「何故か?」ということまでは掘り下げられていない。
他はいざ知らず受験の最前線にいるプロであるはずの方々までもがこんなところで説明を終わらせているのが私は非常に勿体ないと思った。
たとえば、でんがんさんが答えた問題はこちらだ。
正解は①だが、でんがんさんはその理由を「時・条件を表す副詞節では未来のことでも現在形で表す」としか答えておらず、これでは理由として不十分である。
問題文を訳すと「君が帰って来るまで僕は家でテレビ見てるよ」という意味なのだが、until以下が何故助動詞willを使わず現在形で表記するかの説明になっていない。
また、同じようなことはもりてつさんのチャンネルでも言えて、もりてつさんもやはり時・条件を表す副詞節では未来のことも現在形という説明しかされていないのだ。
見ていてとても歯痒い思いをしたので、別に反駁というわけではないが、学校英語の文法の教え方に問題があると思ったので、改めて説明していこう。
時・条件を表す副詞節では未来は現在形?ではこれは?
「時・条件を表す副詞節では未来のことでも現在形で表す」というのならば、以下の英文はどう違うかを説明できるだろうか?
どちらも「もし遅れるなら電話するよ」という意味の英文なのだが、学校で習う「時・条件を表す副詞節では未来のことでも現在形で表す」に則るとbは不適切になる。
だがネイティブチェックをしたらbも実は表現として「あり」となり、そうなると両者はどう違うのか?という話になるが、彼らはこの違いを説明できるだろうか?
まあここまで行くともはや言語学の授業になって来るのだが、先に答えを言っておくとaに対してbは副詞節の内容が曖昧であることを意味する。
つまりbの場合は「間に合うかもしれないし遅れるかもしれない」という話者の推測・推量が入っており、必ずしも条件節に書いてあることが起きるとは限らない。
一方でaは「遅れることが確定した段階で電話する」という意味であり、話し手は現実的に遅れることがあり得ると想定して話を進めているのだ。
どちらも同じ時・条件を表す副詞節であるが、助動詞willをif節に用いた場合とそうでない場合とで何故こんな意味の違いが生じるのか?
それは現在形と助動詞の本質をきちんと理解していれば簡単にわかることなのだが、多くの先生はそこまで踏み込んだ説明ができないでいる。
折角なのでこれを機会に解説させていただくとしよう。
そもそも英語には「未来」という時制は存在しない!あるのは現在時制と過去時制のみ
言語学をきちんと勉強した方はお分かりであろうが、そもそも英語には「未来」という時制は存在せず、現在時制と過去時制という2つの時制しか存在しない。
「じゃあwillやbe going toはどうなるの?」と思われるかもしれないが、willもbe going toもあくまで「現在時制」である。
確かに「未来表現」というのは形式として認められているが、「未来時制」という概念は存在せず、あるのは「現在から見た先のこと」だけだ。
この原理原則をまず押さえておかないととんでもないことになるのだが、それを表すいい例がこちらである。
どちらも「明日の朝東京に向けて出発する」という意味で、高校までの英文法ではcの方が正しくdの方が間違いだと教えられるがそんなことはない。
cとdの違いはというと、cは「明日出発するかどうかはまだ確定ではない」のに対してdは「明日出発することは確定である」ということだ。
助動詞willを用いて未来を表現するのと現在時制で未来を表現するのではこんなにも大きな差があるのは何故なのだろうか?
それは現在時制と助動詞の本質を明らかにすることで簡単にわかることだ。
現在時制の本質は"The statement is true.(陳述内容が真である)"
現在時制の本質は簡単、"The statement is true.(陳述内容が真である)"という、たったこれだけのことである。
よく学校の英文法では現在時制は「習慣」「状態」「普遍の真理」を表すと説明されるが、本質はあくまでも「陳述内容が真である」という意味だ。
習慣だの状態だの普遍の真理だの、そんなものは所詮派生した後付けの意味に過ぎず、そこを分かっていれば大きくブレることはない。
そんな現在形の例をいくつか見てみよう。
いずれもが「真」であることを前提に話されており、あとは動詞の意味や文の内容から習慣か状態か、普遍の真理かが色分けされているに過ぎない。
だから結果として現在形は今のことだけではなく過去のことも、そして未来のことも含めた幅のあるものとして使われることが多いのだ。
だからdの場合も「明日東京に向かって出発することは真である」という前提で述べられているという、ただそれだけのことである。
何も難しいことはない、現在形の中心にある概念はいつだってThe statement is true.(陳述内容が真である)なのだ。
助動詞の本質は「話者の心的態度」
助動詞will、正確には法助動詞will・must・can・may・shallの本質は「話者の心的態度」であり、主観的な推量や思いがそこに込められている。
あとはその想いの強さによってどの助動詞を使うかが決まるわけであるが、これらは何も「未来」のことを表すというわけではない。
助動詞willがたまたま「意志」という意味を持ち、「〜するつもり」という心的態度を露骨に表現する助動詞だからそのように思われているだけだ。
willは決して「未来」のことを表現する媒体ではなく、あくまでも「今現在の話者の心的態度」を「意志」という形で表したものに過ぎない。
しかし、この本質をきちんと理解していないから、時・条件を表す副詞節を表す問題で現在時制かwillを使うかで困ってしまうのである。
実際に「時・条件を表す副詞節では現在時制を使う」というのであれば、以下の文章はどのように解釈すべきなのだろうか?
よく鬼ごっこで使われるフレーズだが、fの方は余程のことでもない限りまず使われることはないと見ていいだろう。
「捕まえられるなら捕まえてみろ」という逃げる側から追う側への挑発なのだが、何故ここでbe able toではなく法助動詞canなのかという話だ。
この場合鬼が絶対的に逃げたものを捕まえることができるとは限らず、逃げ切ってしまう可能性だって考えられるのである。
一方でfの場合だと現在時制として「あなたに私を実際に捕まえる能力があるのならば」ということになり、まるで捕まえることが確定しているかのようだ。
そうなるとif節の表現としては矛盾が生じてしまう、いわゆる「リアル鬼ごっこ」のような、鬼が圧倒的なスピードでも持っていない限りfは用いられない。
つまり条件節の部分が「真」かどうかは分からず「捕まえるかもしれないし捕まえられないかもしれない」という話者の心的態度がcanによって入っている。
法助動詞とはそういう意味で形容詞と並んで人間の感情が出るところであり、この本質を押さえておけば大して難しいものではない。
しかし、この領域まできちんと理解した上で説明している先生も、また生徒もゼロではないにしても少ないのではないかと思われる。
時・条件を表す副詞節だから現在形を使うわけではない
ここまで見ていって、ようやく時・条件を表す副詞節で助動詞willではなく現在時制を使って表現するかがわかってきたのではないだろうか。
そこで最初のでんがんさんが正解した問題を見てみよう。
実はこの問題の正解は①なのだが、その真の理由は「until以下で述べている内容が「真」であるという前提で話者は述べているから」である。
現在時制を用いた条件節はあくまでそれが「現実に起こり得る=陳述内容が真である」として述べているから①が正解とされるのだ。
だから可能性としては③の法助動詞を用いた表現だってないわけじゃない、選択肢にはないがuntil you will come backも使ってもいいだろう。
しかしその場合、until以下で述べられる条件節の内容に話者の心的態度が入り込むことで「真」ではなくなってしまうのである。
仮に問題文をI'll be at home watching TV until you will come back.にした場合、意味合いはまるで異なるであろう。
「君が帰ってくるつもりならば、僕は家でテレビを見ている」という意味になってしまい、相手が戻ってくることが不確定という前提で述べることになる。
現実的に考えてそのような状況はまず考えられないしおかしいからwillを用いた表現ではなく現在形を用いた副詞節の方が適切ということになるのだ。
要するに時・条件を表す副詞節だから未来のことでも現在時制が使われるのではなく、現在時制と助動詞の本質を理解した上でどちらを用いるのが適切か、ということでしかない。
ここまで掘り下げて、ようやく時・条件を表す副詞節で未来のことでも現在形を用いる理由がわかったといえるのではないだろうか。
まとめ
今回は「時・条件を表す副詞節」を例にまるで揚げ足を取るような失礼を致してしまったが、どうしても我慢できず大変申し訳ない。
だが、未だに私が習っていた頃から学校や受験で教えられる英文法の解説に進歩が見られないというのは何とも勿体ないことである。
でんがんさんと武田塾さん、またもりてつさんはいずれもが教育業界に携わる方々として大変優秀で知名度も高いだけに、惜しい気がした。
時代に合わせて英語教育が進歩しているのだから、肝心要の英文法・語法の解説ももっと進歩していいのにと思う次第である。