「周知事項」の更新と『デジモンセイバーズ』(2006)感想〜『機動武闘伝Gガンダム』よりは『勇者王ガオガイガー』をデジモンシリーズでやってみた惜しい実験作〜
固定記事の「周知事項」を更新しましたので、ご確認よろしくお願い致します。
さて、今回はこの数日間『デジモンセイバーズ』(2006)を再視聴していたこともあり、今回はその感想・批評を改めて更新しておこうという次第で、評価は以下の通り。
評価:B(良作)100点満点中70点
最初はキャラクターデザインや対外的な評価が無印みたいな持て囃され方をしているために受け入れられるかどうか迷いましたが、改めて見直してみるとむしろ「テイマーズ」よりも分かり易かったです。
シリーズ構成が『疾風!アイアンリーガー』『機動武闘伝Gガンダム』『メダロット』『ドキドキ!プリキュア』で大活躍されている山口亮太が抜擢されており、プロデューサーから何からスタッフが一新されていました。
また、ファンの対外的評価がどうしても大兄貴の「デジモンと対等に殴り合いができる」という人外の部分ばかりが語られがちなのですが、決してそれだけではなく意外と作品全体の骨子もしっかりしています。
何よりもメインのメンバーが「テイマーズ」と同じようにスリーマンセルで無駄に人数が多くないというのが大変に見やすく、画面がごちゃごちゃしていなないのも大きなポイントかもしれません。
そして何より本作はアクションがとにかく素晴らしい、旧来のシリーズで私が凄く苦手だった「子供達の家庭の問題」だとか「ウィルス種=闇=悪」のような偏った価値観は本作にはなく、意外と押し付けがましさはないものです。
また、本作では「フロンティア」で物凄く雑に扱っていらロイヤルナイツやイグドラシルと真正面から殴り合い決着をつけるという展開もしっかり物語の本筋に据えられ、じっくり腰を据えて描かれました。
なので賛否両論はあるかもしれませんが、少なくともいい意味で旧来の価値観に囚われずそれまでのデジモンが何故だかやってこなかった、意識的に避けてきた「少年漫画の王道」を1年間やりきっているのです。
とはいえ、じゃあ諸手上げて褒められるほど心から刺さった傑作なのかというと決してそうではなく、やはりそこはデジモンのアニメシリーズらしくいまいち痒い所に手が届かない仕上がりになってしまっています。
本稿ではファンが評価しているような「大兄貴すげえ!」というようなマンセーの記事ではないことを念頭に置いて書くので、熱烈なファンの方はそこを承知の上でご覧ください。
『機動武闘伝Gガンダム』というよりは『勇者王ガオガイガー』に近い世界観と物語
さて、本作を評する時にファンは「デジモンで「Gガンダム」をやった作品」と評する傾向があり、また私自身もこれまでそういう触れ込みで「セイバーズ」を語ってきたが、改めて見ると「Gガンダム」というよりは「ガオガイガー」に近い世界観・物語であろう。
「Gガンダム」も「ガオガイガー」も日本を代表する「熱血ロボアニメ」として語られがちだが、それは表面上の演出のテイストや主人公の人外ぶり・ロボアクションの過剰なまでの外連味といった部分に過ぎず、それを支えている骨子の部分はまるで違うのだ。
前者はあくまでも4年に1度の「ガンダムファイト」というオリンピックに近い格闘大会を行うものであり、それ故に「地球の環境が汚染され世界が荒廃している」という環境問題が付きまとい、それを解決するためにデビルガンダムが投入される。
そしてそのデビルガンダムを巡ってカッシュ家とミカムラ家の複雑な因縁が発生するところからスタートしており、実は「Gガンダム」が根底に抱えるものはとんでもなく重たく主人公のドモン・カッシュも単なる熱血バカな主人公ではなく意外に根暗でもあるのだ。
対して「ガオガイガー」は勇者シリーズらしい子供向けロボアニメとしての勧善懲悪ものであり、ゾンダーや機界新種などといった未曾有の脅威から地球や宇宙の平和を守る物語であり、「Gガンダム」とは似て非なるどころかある意味で真逆の世界線である。
どちらも「リアリティーとカタルシスの融合」を試みたのは間違いないが、「Gガンダム」がガンダムシリーズのリアリティーをいかにスーパーロボット的な荒唐無稽のカタルシスで崩してそこに新しい土台を築けるか?に挑戦した作品だ。
「ガオガイガー」はその逆で勇者シリーズ自体が元々持っていた荒唐無稽なスーパーロボットアニメのケレン味の中にいかに「ガンダム」「エヴァ」のような「リアリティー」を融合できるかということをシリーズの最終作として試みている。
本作はそういう意味では「Gガンダム」的なスタンスを表面上では取りつつも、作品として出来上がったものは「ガオガイガー」のような子供向けロボアニメとしての勧善懲悪にいかにらしい理屈を乗っけるか?という作品なのだ。
DATS(Digital Accident Tactics Squad)という本作に出てくる政府公認の公的機関の存在は「ガオガイガー」でいうところのGGG(Gutsy Geoid Guard)に近い特殊科学特捜チームとしており、大兄貴たちはそこに所属している。
そのためよくいえば体制側にきちんとお墨付きを貰っているエリート、悪くいえば国家権力の狗として都合よくこき使われている駒でもあり、後述するが大兄貴たちのキャラ造形は際立って珍しいわけでもなんでもない。
要するに「公共機関のバックアップを得てデジモンたちが現実世界で起こす怪事件に対処する」という、どこが「デジタル」なのかと思うくらいの「アナログ」で「アナクロニズム」な古臭い昭和アニメ・特撮の文法が用いられている。
しかし、逆にいえばこういう公的機関に所属して特定の目的のために立ち向かうという形式にした方が子供達にとっては見易いし、また日本人的集団主義の具現化でもあるのでその方が作り手としても話が作りやすいということだろう。
スーパー戦隊でもそうだが、いわゆるヒーロー作品における戦いの動機には大きく分けて「公的動機」と「私的動機」の二種類があり、セイバーズはその辺りをわかりやすく前者でやっていて、大兄貴を始め私的動機で動くものはほとんどいない。
これはそれまでのシリーズ作品、特に「テイマーズ」が後者の私的動機で戦う小学生たちを描いてきたからこそ、関弘美プロデューサーがそういうものを志向してきたからこそ本作でこの設定がカウンターとして機能したのであろう。
私的動機で戦うヒーローというのは確かに「型にハマらないヒーロー」を描きやすいわけであるが、一歩間違えると「自由と好き勝手を履き違えたエゴイスト」になりやすいし、松田啓人みたいに物語のゴールとして超えられるハードルが低くなりがちだ。
本作はそこを冒頭の段階から「大兄貴たちは公共機関に属して戦う類型的な公の器です!」としたことによって、逆にいえばその路線をずっと忌避してきたデジモンシリーズにおいては有効な設定として機能したのである。
あまりにも類型的「すぎる」大門大とアグモン
本作はまず大枠の部分からして旧来の特撮・スーパーロボットアニメの文法を大々的に導入したことにより「公的機関に所属して戦う類型的な公的ヒーロー」であるために、大門大とアグモンも類型的なキャラクターとなった。
大兄貴は歴代最強の格闘能力に秀でたデジモン界におけるサイヤ人・ガンダムファイターみたいな描かれ方をされているが、その分思考の抽象度や物の見方の解像度は恐ろしいほどに低い典型的な脳筋野郎である。
そしてまた彼のパートナーであるアグモンも初代「デジモンアドベンチャー」とは声優もデザインも変えており、よりブイモンに近い戦闘種族として描かれており、「色気より食い気」のようなキャラだ。
なにせ第一話から食いしん坊な描写があって、下手するとマジで「02」のブイモンとタメを張れるくらいにとにかく「食べる」のである、無印やアドコロのアグモンはそこまで大食いではないのに。
そして何よりもその大兄貴の声優がかのキラ・ヤマトと同じ保志総一朗なのも大きなポイントであり、キラのような繊細な感情を持った複雑な主人公だけではなく大兄貴のような熱血漢も演じられることに驚いた。
私の中の保志総一朗は声質からして熱血キャラは向かないという印象を長いこと持っていたので、本作でそういうキャラクターもそれなりにできるのことを示せたのはでかいし、意外にも彼の熱血演技は嫌いじゃない。
また、彼のライバル兼親友でもあるトウマやサポーターの淑乃もキャラ立ちとしては類型的な程に「役割に沿ったキャラ付け」がなされており、旧来のシリーズに比べてあまり深みがないようにも感じられる。
従来のシリーズが「心の成長」に重きを置いていたのに対して、本作はそういう意味での「成長」をほとんど描かずキャラクター自体も最初から最後までほとんど変わっていないので、そこも安心して見られる理由だろう。
しかし、私はだからこそ思うのは大兄貴とアグモンは類型的「すぎる」のであり、強烈な長所と短所がわかりやすく与えられているのはいいものの、ぶっちゃけていうと「意外性」は全くなかった主人公である。
ここでいう「意外性」とは何かというと「ここでこんな跳ね方をするのか!」「こんな凄いものを見せてくれるなんて!」というような驚き・衝撃とでもいうべきものが大門大とアグモンには全くと言っていいほどなかった。
私の中で彼の存在が無印の太一や「フロンティア」の拓也ほどの悪印象を抱くことはなかったものの、かと言って「02」の大輔や「Vテイマー」のタイチほどの想定外の化け方・突き抜け方もしなかったのがどうにも物足りない。
例えば大輔は「02」の19話までがあまりにも酷すぎたから目も当てられなかった中で20話・21話の奇跡の輝き・マグナモンから後半のインペリアルドラモンに向かって見せていく予想外の跳ね方と25年後のラーメン屋が驚きであった。
あれは基本的に作品世界を自分の意のままにしたい関弘美にとって唯一の想定外だったらしく、まさかの主人公のキャラクターが持つ意外性が最終的には作り手の意向にすら逆らってとんでもない確変を見せたという例である。
そして「Vテイマー」のタイチとゼロマルは元々勝率100%コンビとして描かれていたが、ライバルの彩羽ネオやエイリアス3・デーモンなどの強敵の存在がより彼らの存在を引き立て、終盤では大輔に勝るとも劣らない超究極体へ跳ねてみせた。
そういう「ヒーロー」であることを存分に活かして当初に想定されたものから大きくジャンプアップする展開を本作の大兄貴とアグモンには期待していたのだが、最終話まで見ても彼らはそういう跳ね方を全くしていない。
デジモン主人公らしい暴走による暗黒進化や最終回で描かれたパートナーデジモンとの別れなども含めて、やはり作り手の思惑や計算以上のものを打ち出すことはできず、どれだけ身体能力が最強でも個人的には刺さり切らないままであった。
主人公でさえもこれなのだから、ほかのキャラクターもほぼ全員がそうであり、後述するが「役割に沿った個性・強み」以上のものを見せられなかったのが本作を何度も見直そうとはならない理由である。
今ひとつ「悪の美学」が感じられないイグドラシルとロイヤルナイツ
主人公の大門大戸アグモンでさえもこれだったのだから、本作における「悪」として出てくる倉田やイグドラシル・ロイヤルナイツも個人的には「類型的な悪」以上の存在感がどうにもなかった。
特に「フロンティア」に続いて敵として出てくるロイヤルナイツの責任者にして本作のラスボスとして出てくるイグドラシルのキャラ付けがいかにもな「都合の悪いものを抹消する」以上の理念や行動目的がないのが食い足りない。
こればかりは「セイバーズ」が悪いというよりも無印の頃から続くデジモンシリーズ全体の弱点と言っていいかもしれない、というのもデジモンシリーズは「敵」はそれなりに描けても「悪」を描くのは得意ではないからである。
唯一それに成功したのは「Vテイマー」「02」に出てきたデーモンだけであり、デーモン及びにデーモンが指揮していた軍団は混じり気なしの純粋悪であり、特に「Vテイマー」の超究極体に至る流れは完璧すぎる悪役ムーブだった。
それに対してアニメの方はどうなのかというと、「悪」としてのキャラ立ちが良かったと言われるのはヴァンデモンやダークマスターズ・アポカリモン、「02」のブラックウォーグレイモン辺りだが、個人的には「絶対悪」というにはイマイチ存在感がショボい。
ヴァンデモンはどう考えたって前座というか精々がスーパー戦隊でいう幹部クラスであり、ダークマスターズは確かに純粋悪だが存在感としては精々が「ドラゴンボール」でいうギニュー特戦隊クラスでしかないからそこまで強いわけではないだろう。
また、アポカリモンにしては「滅んだ古代主デジモンの怨念の集合体」であって「絶対悪」ではないし、「02」のブラックウォーグレイモンは「ポケモン」でいうミュウツー枠であって「ただの敵」でしかなく「悪」ではない。
そうなのだ、実は「フロンティア」までのアニメシリーズを見ても絶対悪としての存在感があったのは精々が「02」で不十分に描かれたデーモン軍団くらいであり、ほかの奴らは「ただの敵」か「小悪党」しかいないのである。
それは本作においても同様であり、ロイヤルナイツは単なる「敵」でしかないし、唯一「悪」と言えそうな倉田明宏やイグドラシルですらやっていることが精々「自分にとって都合の悪い存在を抹消する」という矮小な目的の為にしか動いていない。
まあ倉田に関しては初代「デジモンワールド」のアナログマンに似た気持ち悪さをオマージュしたキャラクターとしてなかなかの奥行きは感じられるが、かといって「Vテイマー」の彩羽ネオほどに主人公を苦しめた絶対的ライバルと言えるほどではないだろう。
それこそ「Gガンダム」に例えるなら倉田はどう見たってミカムラ博士とウルベ・イシカワとウォン・ユンファの性格の悪いところだけを融合させて煮詰めた小物の中の小物だし、イグドラシルも「浄化」と言いながらやっていることは単なるホロコーストである。
メタ的にいえば、無印の太一たちが持っていたウィルス種=闇=悪のような幼稚かつ狭量な価値観を更に肥大化させた存在と言えるが、問題は「それがデジタルワールドにとってどれくらい深刻な脅威か?」という部分の掘り下げが不足していることだ。
つまり何が言いたいかというと、本作における「悪」として描かれている者たちが決して主人公たちの「ネガ」としてお互いを引き立てて輝かせているわけではない為に、終盤でヒーローものとしての高まりやジャンプアップがなかったのである。
大兄貴たちが「拳を交えて傷つきながらも人間とデジモンがわかり合う」を体現したヒーローであるのに対して、倉田やイグドラシルの持つ「自分にとって都合の悪い存在を消そうとする」が今ひとつうまく対比として噛み合っていないことだ。
ここがおそらく「Vテイマー」と決定的な差がついた部分であり、「Vテイマー」のタイチとゼロマルが最終的に対峙することになるデーモンや彩羽ネオ・アルカディモンはその辺り上手いこと「敵」かつ「悪」としての立て方が上手かった。
それに対して本作はそこの立たせ方が単なるテンプレ以上のものにはなっておらず、上記の大兄貴たちの描写と併せてもっとこの部分を突き詰めて掘り下げられていれば、評価はもっと上がったかもしれないのにと惜しまれる。
「王道的」ではあるが「例外的」ではないために物足りない
まとめに入るが、本作は確かに作品全体として「少年漫画の王道」という、旧来のアニメシリーズ(「無印」〜「フロンティア」)が意図的に忌避してきた部分を敢えて露悪的なまでにやり通した作品ではあった。
そういう意味で本作は「様式美」の確立自体は非常に上手だったし、また単なる勢いだけではなくロジカルに主人公たちがデジモンとともに戦う理由や仕組みなどの大枠をロジカルに形成していたのも評価は高い。
一見適当に作っているようでいて作劇も設定も実はかなり論理的であり、流石は数々の子供向けアニメで勝負してきた人たちを敢えて揃えて作っただけのことはあるし、初期の期待値はそれなりにあった。
だからそういう意味で本作は作りとしては「王道的」ではあったのだが、残念ながら作品の「様式美=形式」が定めたものを作品の持つポテンシャル自体が超えられなかった為に「例外的」にまではなり得なかったのである。
身も蓋もない言い方をすれば「ヒーローフィクションが起こす奇跡」が「デジモンシリーズの呪縛」を超えることができなかったがために、作品全体として歴代最高傑作の「Vテイマー」を上回ることはできなかった。
また、さき姫さんも以前にコメントされていたが、主人公がワクチン・データ・ウィルスの三竦みではなかったのも個人的には残念なポイントであり、どうにも「物語の様式美」を「映像の動き」が超えられなかったのである。
だから本作はどうしても大兄貴たちのキャラクター像が類型的であり過ぎるが故に深みや意外性がなかったし、まただからこそ山場で見せるべき「ヒーローとしてのジャンプアップ」もできなかったのかなと。
「ヒーロー性は強い作品」だが「ヒーローものの奇跡を安直に肯定していない」が為に、初期で設定したものを作り手がうまく超えられていないが為にA(名作)以上の領域にまでは行けなかった。
数日前に書いた『勇者エクスカイザー』(1990)の時に「王道的だが同時に例外的でもある」と高く評価したが、私は基本的に「王道」が好きだが、その中でも特にS(傑作)やSS(殿堂入り)に入る作品には「例外的な何か」が明らかに作用している。
この「例外的な何か」とはわかりやすく言えば「ヒーローフィクションだからこそ起こせる奇跡」なのだが、本作「セイバーズ」に関しては敵側の描写も含めてこちらが想定する以上には跳ねられないまま予定調和で終わってしまった印象は否めない。
まあそもそもこれは従来のデジモンシリーズが「ヒーローものの王道」を突き詰めることを避けてきた捻くれ者たちが作ってきたが為にそうなったのであろうが、「セイバーズ」もその呪縛から逃れることはついぞできなかった。
そこがおそらくは『機動武闘伝Gガンダム』(1994)との決定的な違いであり、「Gガンダム」は「王道的」でありながら同時に「例外的」でもあって、「ヒーローフィクションだからこそ起こせる奇跡」をガンダムシリーズにおいて起こしている。
そういう意味では作品としてお世辞にも褒められたものではないが、『デジモンアドベンチャー02』こそ実は「ヒーローフィクションだからこそ起こせる奇跡」を一番に体現したシリーズだし、だからこそできが悪くても光る物を感じるのであろう。
逆に言えば本作はそこそこによくできたB(良作)ではあるのだが、作り手が最初から設定したハードル以上のものを見せられなかったという意味においては「テイマーズ」と大差ないということになってしまった。
要するに「団栗の背比べ」レベルであって、私が求める「ヒーローものだからこそ、デジモンというモンスター育成ゲームの枠だからこそ追求可能なエンターテイメント」には程遠い作品というのが嘘偽りない本作に対する率直な感想だ。
そしてそれは同時にデジモンのアニメシリーズが「どれだけ良い線を行っても痒い所に手が届かないシリーズ」という印象を強めてしまっただけのことであり、シリーズ全体の印象を塗り替えるほどにはなり得なかった。
意欲に満ちた革命作を志向しながらも今一歩及ばなかった惜しい作品、というのが本作の妥当な落とし所であろう。
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