こういう老害が日本教育をダメにしてきたのではないか?「はだしのゲン」削除に見る現代に蔓延るポリコレ問題
「はだしのゲン」が広島県教育委員会の方針で子供達に戦争の悲惨さを伝えるための教材から外されるのだという。
私は決して「はだしのゲン」の原体験世代ではないが、作品自体はアニメと漫画の双方で見て知っているので、どんな内容かは大体理解している。
その上で今回の件に意見させて頂くならば、こういう頭の硬い年寄りの老害じみた頑迷固陋が日本教育をダメにしてきたのではないかと改めて実感する。
いつの時代も子供は真っ先に大人の食い物にされるものだが、これなんかも正にその典型例ではないかと思う。
なぜ「はだしのゲン」が削除されたのかというと、ゲンたちの生活の実態が今の恵まれた生活のできる子供達の実態にあっていないからだという。
さらには被曝の実態に関しても正確に描写できたとは言い難いなどと訳のわからないことを宣っているが、こういうバカが作品の表現の幅を規制してきたのだと思うと腹が立つ。
確かにこれらの意見は間違いではないが、そもそも「はだしのゲン」はそのような反戦目的で描かれたものではなく、あくまで作者の実体験が漫画を通して描かれているだけだ。
広島の原爆投下を肌身で体験した人間の皮膚感や恐ろしさみたいなものは漫画・アニメ共に画面に張り付いていたし、今見直しても時代を超えたリアルな感覚として伝わってくる。
「被曝の実態に迫りにくい」などと述べているが、あくまでも漫画なのだから被曝の実態を正確に伝える必要なんぞない、そんなのは考古学や物理学・社会学の人間がやればいいことだ。
反戦について知りたいのであれば歴史資料で十分だが、今を生きる子供たちにとって馴染みにくいテキストでは原爆の恐ろしさを実感してもらいにくい。
だから「とっかかり」としては「はだしのゲン」は間違いなくいい作品だと思うし、私もそのようにして原爆の恐ろしさを勉強していった身である。
その「とっかかり」の1つですらも広島県教育委員会の老害たちは奪ってしまおうとしているわけであり、それだけは決してしてはならないことだと私は思う。
確かに家計を助けようと非合法な行為で金を稼いだり食べ物を盗んだりするゲンたちのしていることは褒められた行為ではないが、追い詰められて何もかも失った人間はその倫理観や善悪の感覚すら失うものだ。
「窮鼠猫を噛む」という言葉があるように追い詰められた弱者の底力を決して甘く見てはならない、土壇場に追い詰められた弱者が自分が生き延びるため強者に反旗を翻すことはままある。
私だってゲンと同じ立場だったとしたら同じことをするだろう、自分の大事な人や家族を救うためだったら違法とされるようなことだって行うのだ。
第一、自分たちが平和な暮らしをさせて頂いている身で何を踏ん反り返って偉そうに綺麗事を宣っているのだ?本当にこの老害たちはいい性格してるなあ。
それこそ私が大好きな漫画の1つに横山光輝版『三国志』があるわけだが、そこでは龐統が劉備に対して「乱世は火事場のようなもの、火事場で日頃の礼儀を守っていては焼け死んでしまいます」と語っている。
また、藤子不二雄の「ドラえもん」でも「戦争は双方が正しいと思い込んでいるから起こるのだ」と語っており、非日常の戦いの場において平和な日常の理屈など通用するわけがない。
だから上記の教育委員会の方々が言ってることはとんだ見当違いであり、所詮は偽りの平和という名の砂上の楼閣に守られて安全な道を舗装されたところから机上の空論を述べている滑稽な連中である。
そしてこういうことを言っている人間に限って自分たちの立場が悪くなったらあっさりと掌返してすり寄ってくるのだから始末に負えないのだが、まあ老害なんてそんなものだ。
だが今回の件は決して特別なものではなく、社会問題となっている「ポリコレ問題」というやつで、なんでもかんでもルールに反しているからダメだと規制してしまうことはかえってひずみを生みだす。
子供たちはそんな大人がつく優しい嘘なんて直感で見抜いているのだが、それを口に出すと何をされるかわかったもんじゃないから大人しく口を閉じるしかないのだ。
よく昨今の老害というか大人たちは「今の子供達には元気がない」「大人しく真面目だけど意見してこない」というが、それは大人たちが生み出してきた「目に見えない強制」を子供達に強いているからである。
ダメなことをはっきりダメと叱るのではなく何でも褒めて伸ばして子供を甘やかすが、裏では自分の思い通りに子供を支配したいというとんでもないエゴが隠されていることを子供は鋭く見破っている。
ゆとり教育にしたってそうだろう、詰め込み教育の反省から学習内容を減らして土日を休みにして完全週休二日制にした結果日本の教育が改善されたかというとそうではない。
親に甘やかされた結果自分の足ではまともに立って歩けない子供達を生み出してしまったわけであり、「ゆとり教育」とは実質「甘やかし教育」でしかないことが露呈したわけだ。
そしてそんなゆとり教育を受けて育った子供達が今の若き大人になったわけだが、彼らが何をするようになったかというとSNSを使っての「いいね」を用いた「承認欲求合戦」である。
とにかく何者かにならんとして必死にSNSで周囲の共感を得ることを目的に大した中身も理念もない動画を見せ続け、それでチヤホヤされて自分が何者かになったつもりでいるのだ。
しかしそれも結局はデジタル社会が生み出した歪みであり、そこに気づいている人間はとっくにもう離れて別のところに行こうとしているが、そうでない者はずっと「自分らしさ」に固執し続ける。
だが「自分らしさ」というありもしない虚像に固執することを教え仕込んだのは大人たちであり、便利なものに囲まれて贅沢しているいいご身分であることに対する感謝も尊敬も謙虚さもない社会を作り上げてしまった。
今回の事例にどう反応するかは人それぞれであるが、私は少なくとも子供達から「知る」「学ぶ」きっかけをまた1つ大人が奪ってしまっているのはいかがなものかと思う。
子供は大人が思っている以上に賢い生き物であり決して大人の玩具ではない、そこに気づかなければダメ人間が大量生産されて行くばかりではないだろうか。
広島県教育委員会の皆様は自分たちがいかにいい思いをして暮らしている贅沢なご身分であるかを自覚なさった上で、この判断が本当に正しいことなのかを再度ご検討いただきたい。