小林靖子が描く男性と女性とは?BL作家説は本当なのか?気が強い女性キャラが多いのは何故?
昨日の「肉親愛と孤独」の記事から生じた疑問として、「そもそも小林靖子はどういうキャラの法則があるのだろうか?」が根底にある。
小林靖子脚本の作家性について語る時、出来上がった作品からファン・信者は以下のようなことを言説として立てたがることを書いた。
レッドが代理人(=2人のレッド)
劇中の描写・設定が重くて難解
後半〜終盤でどんでん返しを行う
主人公に過酷な運命を背負わせて虐める
男2人で話を進めがち(≒BL作家疑惑)
気が強い女性キャラが多い
伏線回収が凄くて物語が緻密
今回の記事はこの中で「レッドが代理人(=2人のレッド)」「男2人で話を進めがち(≒BL作家疑惑)」「気が強い女性キャラが多い」についてを見ていく。
昨日の肉親愛の話の延長線上なので同じネタが出てくるかもしれないことを予め書いておこう。
果たして、小林靖子が描く男性と女性は出来上がった作品上でどのように生きられているのであろうか?
根底にあるのは「バディ(相棒)もの」="ブロマンス"(エロスのない兄弟の絆)
まず小林靖子の根底にあるものとして、「バディ(相棒)もの」="ブロマンス"(エロスのない兄弟の如き絆)というのがライダー・戦隊の双方に共通する特徴だ。
これ自体は小林靖子特有のものではないが、彼女は特に時代劇や刑事ドラマ「Gメン'75」を多く見て、その脚本構造を書き取って研究していたのは有名な話である。
何より彼女自身が「セリフの掛け合い」を大事にしていることから、2人1組で話を進めることを戦隊でもライダーでも徹底していて、ここぞという時には2人にさせることも多い。
昨日述べた肉親愛の話に出てきた親子・兄弟・姉妹もそうだし、5人組のヒーローでもやはり2人で話を進めることが中心にあるのではないだろうか。
思いつく限りで、昨日挙げたもの以外に小林靖子がメインライターをやっている作品の中から思いつくバディ=ブロマンスを挙げてみる。
リョウマ&勇太、ハヤテ&ヒカル、ゴウキ&鈴子先生(『星獣戦隊ギンガマン』)
竜也&ユウリ、竜也&アヤセ、ドモン&アヤセ、ドモン&ホナミ(『未来戦隊タイムレンジャー』)
真司&蓮、真司&優衣、蓮&優衣、北岡&吾郎(『仮面ライダー龍騎』)
良太郎&モモタロス、良太郎&愛理、良太郎&侑斗、愛理&侑斗(『仮面ライダー電王』)
丈瑠&源太、茉子&ことは、流ノ介&千明、千明&ことは、丈瑠&彦馬、薫&丹波(『侍戦隊シンケンジャー』)
映司&アンク、伊達&後藤(『仮面ライダーOOO』)
ヒロム&ヨーコ、ヒロム&ニック、リュウジ&ヨーコ、マサト&J(『特命戦隊ゴーバスターズ』)
ライト&ヒカリ、ヒカリ&カグラ、トカッチ&ミオ、ミオ&カグラ(『烈車戦隊トッキュウジャー』)
他にもあると思うが、頭の中に浮かんだだけでもこれだけのバディ=ブロマンスが画面の中で迫力を持って生きられているのだ。
そして見てみるとわかると思うが、意外と小林靖子は中立的に組ませていて、男女を問わずに組ませるために偏った印象がない。
主人公中心主義としてファンからは語られることが多い彼女の脚本の中に、最低でもこれだけの人間模様が描かれているのである。
それが恋愛であろうと肉親だろうと親友だろうと何であろうと、そこに子供向けとして放送してはいけないレベルのものはない。
俗に言う「レッドが2人」「男2人で話を進めがち(≒BL作家疑惑)」というのも、その方が彼女には書きやすいからファンにはそう見えてしまうだけである。
そこに色気のある関係があるかというと必ずしもそうではなく、むしろ時折垣間見える根底にあるドライさやニヒリズムのようなものがふと顔を出すこともあるだろう。
また、美しい絆の奥底には圧倒的な「残酷さ」「痛み」を伴うことも少なくないので、他の作家が書くような綺麗事としての男の友情や色気あるエロスとは違うのである。
むしろ異様なまでに達観したドライさ故にいかなる人間関係においても、ギリギリのところで寄り過ぎるところがない覚めた姿勢が小林脚本の妙ではないだろうか。
小林靖子がBL作家なのは受け手の感性の問題
さて、ファンからもアンチからもよく言われるのは「小林靖子は男を無意味に近づけるからBL作家だ」という"BL作家疑惑"だが、これは本人の口からきっぱりと否定されている。
「高寺成紀の怪獣ラジオ」でゲスト出演した時の1回目で彼女はそういう性癖がないことも、そして自分が幼少期の頃にはそんなものはなかったとも言っていた。
本人が言うように、どの作品においても同性愛という設定のキャラが登場したことも男同士のラブロマンスが演じられたことも一度もない。
それにもかかわらず、彼女が描いたドライなブロマンスがそう見えたのだとすれば、それは受け手の感性の問題だとしか言いようがないだろう。
比較対象として持ち出すのは何だが、例えば井上敏樹が描く『鳥人戦隊ジェットマン』の天堂竜と結城凱は明確な「男の友情」だし、武上純希が描く『電磁戦隊メガレンジャー』の伊達健太と並木瞬も同様である。
この2人は作品のなかでネタ的にBL疑惑を持っている層に向けてそういう軽いネタを出すことはあるが、小林靖子が描くブロマンスにそのような生々しい色気はない。
むしろ枯れたというか円熟・達観した感性によって描かれているので、キャメラがどれだけアップで役者を映し出しても全く官能的なエロスの表情はそこに出てこないのである。
「黒騎士の決意」のリョウマとヒュウガの抱擁、「極付粋合体」「重泣声」での茉子とことはの抱擁にそれぞれボーイズラブ、ガールズラブの色気は全くない。
そう、小林靖子脚本は人間模様を重視しながら時にゼロ距離にしてもみせるが、そこにウェットな感情や湿度の高さのようなものは全くないだろう。
その解釈違いが露骨に出たのが小林靖子と井上敏樹のライダーバトルとなった「仮面ライダー龍騎」の城戸真司と秋山蓮の関係性である。
劇場版やテレビスペシャルを手がけた井上敏樹は真司と蓮の関係を「男の友情」という一義的なものとして解釈し描いてみせた。
対する小林靖子は必ずしも真司と蓮の関係性を一義的に決めて描いているわけじゃないし、ライバルでもズッ友でもない。
そう見るとき、小林靖子脚本の人間関係は驚くほど無臭であり、「格好良さ」はあるが「ワザとらしさ」「生臭さ」のようなものは全くない。
それは決して主人公に過酷な運命を背負わせているからでも、また恋愛・結婚といったものに対して禁欲的だからという厳しさでもないであろう。
だから、彼女の脚本がもし「やおい」だの「百合」だのそんな二次元的「萌え」で見えていたとしたら、それは受け手の感性がそういうものに毒されているだけである。
フィルターを外して真っ新な状態で彼女の作品を見直せば、それがメイン・サブを問わずどんな人間関係でも官能的な色気は感じられないことなど一目瞭然だ。
気が強い女性が多いのは「戦いに居ても邪魔にならない存在」でなければならないから
小林靖子が描く女性キャラが戦隊・ライダーの敵・味方を問わず気が強いと言われる、そう感じられる理由は「戦いに居ても邪魔にならない存在」でなければならないからである。
そして何より小林靖子自身が過去の体験から現在に至るまでそういう「ジェンダー」としての「女性性(女らしさ)」を意識的に持つことなく生きてきたからだ。
上記の高寺Pのラジオでも子供時代は弟の影響で男の子が見るべきヒーロー作品やハードボイルドな時代劇を見て「格好良さ」を己の血肉にしたことを語っている。
だからいかにも女の子向けらしい少女漫画を読んだことがないし、学生時代の部活もバスケット・ソフトボールとモロに体育会系の男勝りな女性であったとのこと。
それが自然と作風や登場人物の言動・行動に影響を与えているかどうかは別としても、小林靖子が描く女性は男性に寄りかからない芯の強いキャラであることが多い。
上原正三から脈々と続いてきた男性脚本家とは違い「女性性」の部分を露骨にアピールすることはなく、結果として華がない地味な女性ばかりとなる。
代表例は『未来戦隊タイムレンジャー』のタイムピンク/ユウリだが、彼女は終始「女としての自分」を竜也との一対一の関係性以外で出したことがない。
しかもその竜也との関係性ですら「エロス」の領域にまでは昇華されず、あくまでも「いい思い出」としてのみわずかに心の隙間を埋めただけだ。
ユウリは時空警察としての仕事以外は何も出来ず、リーダーとして偉そうに仕切るわけでも、そして「男だから/女だから」といった性差別にこだわるわけでもない。
あくまでも仕事を黙々とこなすためには男と対等でなければならず、その為には「女だから」を言い訳にして足を引っ張るようなことがあってはならないのである。
スーパー戦隊や仮面ライダーはあくまで「男社会」であり、体力知力諸々で男に劣るとされる女がそこに混じって戦うには相当な覚悟・勇気・スキルが要るであろう。
そんな状況の中にあっては「女らしさ」なんて端から捨てる覚悟が必要であり、それはどの女性キャラにおいても徹底されている。
小林靖子のそんな作風に合わせた結果なのか、「ギンガマン」から「トッキュウジャー」までの5戦隊3ライダーの中で男性の目を惹きつける程の美貌の持ち主は出てこない。
ギンガピンク/サヤ、シンケンピンク/白石茉子、シンケンイエロー/花織ことは、シンケンレッド/志葉薫、イエローバスター/宇佐見ヨーコ、トッキュウ3号/ミオ、トッキュウ5号/カグラのいずれにも共通している。
カンヌまで行った高梨臨や元アイドルの森田涼花も可愛いし綺麗だが、だからといってハロプロのトップアイドル(後藤真希・鈴木愛理など)辺りとタメを張れるほどに垢抜けた容姿ではない。
大体は「愛玩系妹キャラ」か「女気ゼロのクールビューティ」のどちらかになるし、またその存在が劇中で男性陣にとっての華やぎになることも恋愛・結婚の対象になることも皆無だ。
官能的な色気といえば「ギンガマン」のシェリンダを演じた水谷ケイや「ゴーバスターズ」の水崎綾女は例外的だが、それでも劇中で色気を使って男性陣を罠に嵌めたことは(小林脚本では)ない。
「タイムレンジャー」の井上敏樹が書いた回では例外的にリラとユウリのお色気バトルみたいになったが、小林靖子脚本ではないため除外させていただく。
何れにしても、小林靖子がメインを務めた戦隊の女性キャラが性的関係に至りたいと見る側を思わせるようなことは劇中一度もないであろう。
小林靖子が描く「格好良さ」とジェンダー論は無関係
さて、今回のお題を書く上で最後に書いておきたいのはLGBTであるが、何かにつけてジェンダー論とヒーロー作品をこじつけて論じる者が出ているようだ。
性同一性障害をお持ちの佐倉智美氏などはその典型だが、例えば以下のような記事でこんなことが書かれている。
何をわけの分からないことを宣っているのかは知らないが、戦隊ファンを自称する視聴者の中には時々このような牽強付会を行う人もいるといういい例だ。
社会的に周囲から強制される役割と自分自身の意思という「公と私」の問題の中に「ジェンダー論」も「LGBT」も無関係だし、小林靖子本人にこんなことを言おうものなら失笑されるのがオチである。
例えば「3年B組金八先生」の第6シリーズや「ボーイズドントクライ」のように、LGBTそのものをフィクションのテーマとして大々的に描いた社会派作品なら話は別だ。
それらを語る際にはジェンダー論を持ち出して語るのも不適切ではないが、少なくとも小林靖子が描いてのは「格好良いヒーロー」であって「性的少数派の問題解決」ではない。
上記したように、戦隊やライダーのような「戦い」は「男社会」の理屈で描かれているから、そこに可愛いだけのアイドルっぽい女の子が来たって何の役にも立たないのである。
それに対抗するために彼女は「戦いにいても邪魔にならない存在」として男勝りな女を言い訳にしない女性キャラを設定し描いているに過ぎない。
何が言いたいかというと「餅は餅屋」であり、あくまでも小林靖子は「ヒーロー作品でどんなヒーローが描けるか?描けないのか?」という限界の挑戦を行っただけである。
もちろん「女性キャラがどう戦いの中で活躍するか?」に悩むことはあるだろうが、そこに「男だから女だから」ではなく「その人物ならどう動くか?」しか彼女の中にはない。
それを体現した結果としてあのような葛藤・苦悩が描かれているというだけであって、それはジェンダー論なる社会的問題とは全く無関係の要素である。
私が日本映画で一番敬愛している小津安二郎監督だって生前このような名言を残していた。
そう、豆腐屋には豆腐屋しか作れないし、トンカツ屋にはトンカツしか作れないから、映画には映画しか作れないし戦隊シリーズには「戦隊ヒーロー」しか作れないのである。
もちろん作られた時代性はあったとしても、その奥にある思想や社会的背景などを読み込むことはとりもなおさず作品や作家の神格化=骨董品扱いに繋がってしまう。
そのようなことのないように、今後も戦隊ヒーローなりそれを書いている作家なりを論じていくことが肝要であると私は考えている。