スーパー戦隊の専門家には程遠い私がスーパー戦隊の何たるかを語る「いい加減さ」について
久々に戦隊についての話題ですが、そういえば私自身は気がつけば黒羽翔さんをはじめいろんな人から「戦隊シリーズの専門家」なんて評されることが多いですが、私ほどスーパー戦隊に関して横着で憎たらしい人もいないと思う、自分で言うのも何だけど(笑)
むしろ最近は私のことを「MBTIで戦隊を分類するキチガイジジイ」とかいう人までいるくらいだけど、ぶっちゃけこれに関してはわざとやっていて、そう評してくれたらむしろ成功している感じはする。
以前に「スーパー戦隊シリーズには批評家がいない」と語ったけれど、翔さんから「じゃあヒュウガさんがなればいいじゃないですか」と言われて首を縦に振らなかったのは私ほど「批評家」に向かない人はいないから。
だって批評家って基本的には価値中立じゃなければいけないし、好みや趣味が入るのは別としても、そういう堅苦しいものに自分を嵌め込んで価値観を固定してしまうのが物凄く大嫌いなのである。
しかしながら、同時に「価値を分かってすらいない癖に分かったかのように褒める」人があまりにも多くて、それがネットのSNSやブログで可視化されるようになってきたから私自身もこれは書いておくかという苛立ちに似た思いがあった。
12年前に始めた頃は単なる「趣味」の延長線上だったものがいつの間にか「趣味」ではなくなってしまっていたが、それでもどこか戦隊について書くのはやはり「趣味」に他ならないところがあるからだ。
スーパー戦隊シリーズの中でなぜ私が『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』の3作しかS(傑作)・SS(殿堂入り)扱いしないのかというと、この3つさえあれば「戦隊」は語れてしまうからだ。
一応翔さんに勧められたのもあって10年がかりで全の戦隊の感想・評価は書けたし、今でも見てはいるけど、それでも「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」があれば十分というのは変わっていない。
少なくとも、訳もわからずに私よりも若い連中が通ぶって『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』『未来戦隊タイムレンジャー』辺りを褒めてしまうよりはよほど戦隊ファンの在り方として健全だとは思う。
スーパー戦隊をある意味で「潰した」戦犯は間違いなく数人いて、それが井上敏樹・白倉伸一郎・小林靖子・髙寺成紀辺りなのだが、憎らしいのはこの4人のうち3人が上に挙げた三大傑作の中の2つに関わっていることだ。
それこそ、『鳥人戦隊ジェットマン』を私がなぜ未だに褒めているのかというと、やはり物心ついた時に見た「最初の戦隊」という原体験が大きく影響していて、私が「戦隊」に入ったきっかけでもある。
言うなれば童貞喪失に近い感覚があって、物語がどうとかキャラがどうとかヒーロー像がどうとか、そういう次元の低いレイヤーを遥かに超えたもっと直感的かつ強烈な「映像体験」を味わった手応えがあった。
そういう皮膚感覚はもしかすると錯覚・勘違いであったのかもしれないが、いわゆる「思い出補正」とも違う新鮮な感覚を味わったし、未だに「ジェットマン」を見直す度にその感覚が蘇ってくる。
私が幼少期に見たものを大人になって見直してもそのようなことはほとんどないのだが、こと「ジェットマン」に関しては見直す度に「これは凄い」と理屈を超えたところで震える感覚があるのだ。
もし「ジェットマン」をリアルタイムに見てなくて大人になって見直したとしたらとてもそんな感覚にはならないだろうし、下手すれば「戦隊を潰した戦犯」として井上敏樹と雨宮慶太をボロクソに扱き下ろしていただろう。
だけれど、大人になってそれなりの年を重ねたからこそわかるけど、「ジェットマン」という作品の実に憎たらしく、また恐ろしくもあるのはあの作品の持つ作家性自体は突然変異で再現性がないのに、根幹のところでちゃんと「戦隊」をやっているところだ。
「戦うトレンディドラマ」なんて陳腐な言葉では形容し難い魅力が間違いなくフィルムに込められているし、そこにまるで戦隊の歴史の包括すらも垣間見るような瞬間が多々あって、それが私の心を未だに揺さぶるのだろう。
「ジェットマン」は放送当時から賛否両論の作品として語られているが、放送当時はどちらかといえば「否」の声が大きかったのに今ではすっかり「賛」の声ばかりが大きくなっているのは気のせいであろうか。
本来ならば井上敏樹という作家ならびに『鳥人戦隊ジェットマン』という作品は「戦隊を壊した戦犯」として血祭りになっておかしくない作品にして作家であり、その作風は突然変異で再現性がない。
実際、その翌年の『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『超力戦隊オーレンジャー』の杉村升がメインライターを担当した90年代前半の戦隊ではその作風は放棄された挙句継承されなかった。
正確には「ジェットマン」が内包していたものを「等身大の正義」として別角度から拾い直し再定義したのが『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』だから、継承されていないわけではない。
しかし、『仮面ライダー』のメインライターを担当し、自身も文学少年だった「山手のお坊ちゃん」だった井上敏樹と鈴木清順で元ダンサーだった東京下町上がりの浦沢義雄では気質が全く異なる。
また、「ジェットマン」という作品の「罪」を挙げるとすれば、やはり荒川稔久や武上純希のような大した才能のない職業作家が跳梁跋扈して「俺も戦隊が作れる」と思わせたことにもあるだろう。
確かに「ジェットマン」は戦隊の歴史を大きく変えた革命的な作品であることは周知の事実だが、映画史でいうゴダールのようにこういう若手の作家が既存の概念を破壊する作品を出すと、誰もが作れるという勘違いを起こさせる。
最初の方で書いた「戦うトレンディドラマ」という評価がそうであるように、年がら年中仲間割れや痴話喧嘩を繰り返している戦隊という誤ったレッテル貼りをしてきた勘違い野郎を何人見てきたかわからない。
だからこそ、腹立たしくなるのは作品の価値すらわかっていない若い世代が既に出来上がったネット上の評価を鵜呑みにして「ジェットマン」の真の価値がどこにあるのかをわかろうとしない、あるいはわかった「振り」をし続けていることだ。
同じようなことは『星獣戦隊ギンガマン』に対しても思っていたことで、リアルタイムから今までずっと私が戦隊を語る時に言ってきたのは「ギンガマンはすごい作品」ということである。
しかし、ネット上を見ると残念ながら小林靖子脚本の作家性で見た時に「ギンガマン」を褒める人はほとんどおらず、もっぱら作家性が確立された『未来戦隊タイムレンジャー』以降だろう。
実際、小林靖子信者を公言していながら「ギンガマン」を貶す人はいる、たとえばこれなんかはその典型だ。
ここまでボロクソ言われるとかえってその的外れっぷりと堂々とした語り口に乾いた笑いすら込み上げてくるが、「小林靖子の作家性」という極めて視野が狭く偏った陳腐な感性の人には「ギンガマン」は「普通の凡作」に見えてしまうらしい。
どこが「凡作」なものか!
「ギンガマン」ほど「王道とは何か?」を考え「戦隊」という枠だからこそできるエンターテイメントやヒーロー像を1年かけて向き合って作った作品に他ならないのだぞ。
そもそも「主役5人が、平凡で魅力に欠ける」とのことだが、こないだの戦隊レッドのMBTI分析を見ればわかるように、ギンガレッド/リョウマの独特のキャラ付けは他に例がない一世一代限りのものである。
少なくとも「メガ」までの戦隊にも、そして「ゴーゴー」以降の戦隊レッドにもリョウマと全く似た主人公レッドなど存在しないし、それは他の色の戦士に関しても同じことだ。
さらにいえば「当たり前のことしか言わない。もっとヒネリを利かせろよ!」というが、そもそもヒーローが言うことなんてほとんどが「当たり前のこと」に聞こえて当然だし、むしろその「当たり前」がどれだけ難しいかをこの捻くれた信者はわかっていない。
「当たり前」ということは即ち「基礎基本がきちんと押さえられている」ことであるし、またギンガマン5人の基礎設計たる「いつ復活するかもわからないバルバンとの戦いに備えて3000年もの間臨戦態勢で準備してきた」は伊達ではないのだ。
少なくとも昭和戦隊のような訓練上がりで選ばれたわけでもないし、また素人が偶然に使命を押し付けられたわけでもない、きちんと過酷な選抜を潜り抜け、尚且つ落選者が出るというシビアなところから始まっている。
これだけ「プロ中のプロ」という設定が脚本からも映像からもしっかり活かされている戦隊は他になく、それを「普通」「当たり前」と言い切って切り捨てている時点で、こいつは「ギンガマン」の何たるかを全くわかっていない。
まあこれは極端な例かもしれないが、ここまで酷くはなくとも小林靖子脚本が好きな東映特撮のファンの中で「タイムレンジャー」以降ではなく「ギンガマン」が一番好きという人と今まで私は会ったことがない。
ほとんどが戦隊シリーズだと『未来戦隊タイムレンジャー』か『侍戦隊シンケンジャー』辺りのような「黒靖子」と呼ばれるダークな作風に惹かれて好きになったため、例外的に王道である「ギンガマン」を褒められないようである。
「オタクにほとんど喜ばれない」が「真の良質な子供向けとしていつの時代も見られる」という髙寺成紀をはじめとする作り手の意図は十二分にしっかり満たされているわけであり、センスがないのはむしろそれを評価できないこいつの方だ。
こないだも語ったことだが、「タイムレンジャー」「シンケンジャー」のような既存の王道に対する逆張りをやるだけの尖った異色作を作るのも褒めるのもそんなに難しくはない、ある程度の技量と既存の作品に対する分析をやっていればできることである。
一番難しいのは「再現性が高い=誰もが真似しやすい」王道においていかに「独自性の高い強固な作品」を作り上げるか?であり、それを満たしたのは私が見たところ『電撃戦隊チェンジマン』と『星獣戦隊ギンガマン』しかない。
「通常の戦隊シリーズの水準は十分超えているのだろうが、小林靖子にしてはフツー過ぎる」という言葉は裏を返せば「処女作にはその作家の全てが詰まっている」に帰するだろう。
要するに「タイムレンジャー」以降で展開されていく小林靖子の作劇やヒーロー像の基礎基本といったエッセンスが全て詰まっているのが「ギンガマン」という作品なのである。
逆にいえば、『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』『特命戦隊ゴーバスターズ』『烈車戦隊トッキュウジャー』は全て『星獣戦隊ギンガマン』から派生した変形バージョンに過ぎないから、わざわざ私が批評する重要性も緊急性も薄い。
私が小林靖子の作家性という点でも、そして髙寺成紀の作風という点でもなぜ「ギンガマン」を最も高く評価しているのかというと、「こいつらちゃんとした王道も作れるんだ」という驚きである。
髙寺成紀も小林靖子も他の作品群はどれも一癖も二癖もあるオタク受けしそうな、悪く言えば「斜に構えた」天邪鬼な作風のものが多いのだが、その中で「ギンガマン」だけが唯一ストレートに王道を描いているのだ。
この種の驚きは他の作品群では見られないし、本当に見直すたびに「メガ」までを含めたあらゆる90年代戦隊のエッセンス・歴史が全てこの作品に集約されているような凄みを感じる。
そこを感じ取れてではないか思うし、少なくとも変に訳もわからず『未来戦隊タイムレンジャー』を最高傑作扱いしているこいつも含めた靖子信者より遥かにその辺りの感覚はある方だとは思う。
とはいえ、私にも弱点・欠点はあって、私の場合戦隊に関しては70〜80年代は原体験としてそれを通過していないし、また00年代の「ガオレンジャー」以降に関しては正直何が魅力かわからない。
それに対して批判的に私のことを見る向きもあるのは重々承知だが、それでもわからないものを無理やりわかった振りするよりはよっぽどマシだと思うし、00年代以降の戦隊はバカでも語れるレベルのものが殆どだから私が褒める必要もあまりないだろう。
そういういい加減さがずっとあるから、私は少なくとも歴代戦隊の何たるかを語れる専門家というわけではない、戦隊を専門的に研究している人は他にいくらでもいるし、カタログ的な知識だけならオフィシャルムック本でも買えばいい。
『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』の3作があれば戦隊は十分に語れる、私は昔も今もそう思い続けている。