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国民的であることは決していいことばかりではない!中居正広が使った「にわか」という言葉の真意とは?

遂に国民的スターの口から「にわか」という言葉が出てくるとは思わなかったが、この言葉はある意味中居正広だからこそそれ相応の説得力を持って言えたことではなかろうか。
「にわか」という言葉はネットの世界だと大抵「半可通」「エピゴーネン(亜流)」というネガティブな意味合いで使われることが多く、私自身は大嫌いな類の言葉である。
しかし、その言葉を国民的司会者の仲間入りを果たしているSMAPのリーダーがわざわざ選んで使っているということは、当然彼もネット社会のそういう理を知った上で皮肉も込めて使っているのだろう
タモリや明石家さんまに弟子入りして広辞苑まで沢山読んで言葉の意味をきちんと理解している彼がわざわざ「新規」「初心者」ではなく「にわか」という言葉を使ったのはもちろん意味があってのことだ。

これは別に芸能界に限ったことではないが、「国民的」であることは決していいことばかりではない、ということは90年代〜00年代、すなわちテレビ全盛期を原体験で通ってきた世代の感覚として強く主張しておきたい。
そもそもSMAPなり嵐なり、いわゆる「国民的」と呼ばれたトップスターたちは決して単なる時の運や事務所の所属だけでその地位を築き上げてきたわけではないということは誰しもが分かっているはずだ。
しかし、その全盛期を体感していない世代にとって、もはやSMAPも嵐も「過去の伝説」としてしかその凄さを知らない時代に差し掛かっている今、SMAPや嵐がどう凄いのかを正確に理解・納得してその魅力を言語化できる人がどれだけいるのか?
それを試す意味合いもあって、おそらく中居正広は敢えてその領域にまだ足を踏み入れていない後輩の山田涼介に対して「にわか」というキツめの言葉を使って表現したのではないかと私は思っている。

確かにファン層だけではなく、お茶の間の人たちレベルですら誰もがその存在を認知し、一人一人の顔と名前が一致して言える、どの楽曲も聴いたことがあるというレベルの認知度・知名度・人気を獲得しているのが一種の「国民的」の定義だろう。
それは同時に「本質を理解すらしないで雑に語ってしまう半可通・エピゴーネン」を大量に増やすという弊害もまたあるわけであり、その弊害の1つが例えば木村拓哉批判や松本潤批判などのような特定の人気タレントに対する誹謗中傷である。
グループの中でも派手に目立つスターである木村拓哉・松本潤のような存在には一定数いわれなき批判・誹謗中傷を行う層がいるわけだが、中居が「にわか」と指している人たちにはそういう人も含まれていることは自覚しておいた方がいい
ここが中居正広という司会者のカッコ良くもあり怖いところでもあって、バラエティーとして笑いに変えてこそいるものの、その視線は的確かつ冷静沈着に「にわか」と称される者たちを包括しつつ批判の眼差しもむけている。

すなわち、中居は山田に対して「国民的」という看板は憧れを向けられる存在であると同時に、誤解・差別・偏見の目で見られ何か不祥事を少しでも起こせば直ちに大衆に非難されるリスクも背負うことをも意味すると説いているのだ。
そのリスクを背負ってもなおその高みに登るだけの覚悟と準備ができているものだけが踏み入れられる「国民的」という領域はそう簡単に入れるところではないし、入ったとしてもその地位を維持し続けることは難しくもある
SMAPにしろ嵐にしろ、そういうリスクを背負った上で決して甘んじずに戦い続けてきたからこその今の地位なり名誉なり称号なりが結果としてあるわけで、それらは本人達が最初から望んで手にしたものではないだろう。
まさに、かつての金スマで中居が松本潤を相手に「そのマウンドに立ったものとしかわからない」と言ったように、「国民的スター」という看板は彼らを強くもすれば弱くもする諸刃の剣なのだ。

この手のことで何が一番困るといって、「国民的」と言えるほどの知名度・認知度・人気・大衆性を獲得したものはそうした「にわか=半可通・エピゴーネン」から物凄く粗雑な扱われ方をすることである。
私がいわゆるネットにいる「オタク」と呼ばれる人種を押し並べて嫌悪しているのもそういう理由によるもので、ものの価値を分かってもいないくせに通ぶって称賛したり批判したりする人が大半なのだ
わかりやすい例が私が書いた『鬼滅の刃』の批判記事に対して怒って突撃し、私が大好きな『ドラゴンボール』を貶して『ジョジョの奇妙な冒険』『キン肉マン』など他のジャンプ漫画を持ち上げたがるまぐなんかはその典型だろう。
また、そのまぐの知り合いだかなんだか今となってはよくわからないが、かつて私とXのスペースやSkypeなどで交流を持った八景島をはじめとするいわゆる「Z世代」と呼ばれるオタク達も私に言わせれば中居のいう「にわか」である。

あいつらは私が批評しているスーパー戦隊シリーズをはじめとする作品群を見ている割に、言葉として出てくる批評や語りに全くセンスも着眼点の確かさもなく、適当にネットの言説を見て鵜呑みにした程度のことしか言えない
例えば『ドラゴンボール』に関して、まぐなんかは悟空のことを「ヒーローではなく戦闘狂」「サイコパス」「ド派手な戦闘シーンしか魅力がなく底が浅い」といった「お前本当に作品見たのか?」レベルの幼稚な悪口を展開していた。
そのくせ、例えば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジが「陰キャ」とネットで呼ぶ人が居たり『鬼滅の刃』の煉獄さんの無駄死にを批判されたりすると瞬間湯沸かし器の如く怒ってみせるのだ。
滑稽なことこの上ないだろう、自分は『ドラゴンボール』というジャンプ漫画はもちろんあらゆるバトル漫画・アニメの概念を変えた偉大な名作をその価値もわからず主観で批判する癖に、自らが大好きな「エヴァ」「鬼滅」を批判されることを許さないのだから。

八景島にしたって似たようなもので、彼の場合もやはり『ドラゴンボール』に関してしょうもないことを述べていたのだが、さらに彼の場合は私の前で臆せずに『機動武闘伝Gガンダム』を「「逆シャア」の焼き直し」と言っていた。
おそらく私が10年若かったら言葉の力ではるかな眠りの旅を捧げていただろうが、同時に歴代のスーパーロボットアニメ作品の歴史をそれなりに知っていながらそんな浅い言葉でしか語れない貧相なセンスと語彙力の無さに私は愕然としたのである。
そもそも『ドラゴンボール』にしろ『機動武闘伝Gガンダム』にしろ、作品をなん度も繰り返し見た上でその良し悪しも理解した私に言わせれば、その価値すらわかっていない人間が粗雑に扱うなと言いたくもなろう。
確かに私も例えば『ドラゴンボール』のことを貶したり玩具にしてみたりすることはあるし、人造人間編以降は人気面も内容としても下降したのは間違いないが、それは逆説的にナメック星編までがいかに凄いのかの裏返しでもある。

「Gガンダム」にしたって同様にネタにして遊ぶことはあったとしても根底にその作品への深い愛とリスペクトがあればこそであって、根本の価値もわかってすらいない「にわか」という名の外野が生半可な気持ちで語るなと思うのは当然のことだ。
しかもそういう手合に限って自分達はいろんな作品を見て知っているアピールをなぜかこちらに対して仕向けてくるのだから余計に反応に困るのだ、一体お前たちは何を目的で俺に対してそんなウザ絡みをしてくるのかと。
もちろんそういう人ばかりではなく、中には黒羽翔さんやさき姫さん、あるいはプライベートだが親友Fのようにきちんとした真っ当な話ができる例外的な人たちもいるが、「オタク」「ファン」と呼ばれる大半は「にわか」である
もっと正確に言えば「オタク(ファン)を自称するにわか」に留まっており、中居正広はそういう人たちを相手に商売することの難しさも苦労も十二分過ぎるほどに経験していることを含めてこの言葉を使ったのだ。

だから、この中居正広の「にわか」というワードセンスに対して単純に「凄い」と称賛しているようではまだまだであり、その言葉の奥に込められた本質まで見極めた上で、自分がにわかなのかそうではないのかを見極めることが大切である
そして可能であれば中居の言い分に対する論理的批判や異議申し立てを行う、それができなければ単なる半可通・エピゴーネンの領域から抜け出ないし、一生利用されたまんまで終わってしまうのだ。
まぐにしても八景島にしても、私は彼らが紡ぎ出す言葉を見て「ああ、この人たちは一生搾取されて終わるオタク未満だなあ」と第一印象からして思っていたし、それは今でも全く変わらない。
彼らの語りは決して自らが作品に向き合って作品に対して格闘して紡ぎ出されたものではないことをわかっていたから、それを承知の上で敢えて彼らに好き勝手させてあげていただけなのである。

本物のファンだったら『ドラゴンボール』をただ貶すのではなく何が凄くて何が凄くないのか?を見極め、逆に『新世紀エヴァンゲリオン』『鬼滅の刃』を称賛するだけではなく批判もできなければならない。
そしてその上で「今までこの作品に関してはこういうことしか語られてこなかったが、実はこの作品の魅力はこういう所にあるのではないか?」と視点を変えて違ったアプローチで仮説を立てて批評してみる。
芸術作品が時代に沿った表現の進化や洗練といった創造性が求められるように、芸術作品の評論・批評もまた時代に沿った表現の進化・洗練といった創造性が求められて然るべきではないか。
私にこれだけボロクソに言われて悔しいというのであれば自らの言葉でその作品の魅力を全力で言語化し、新たな批評のアプローチ・スタンスを獲得するべく努力するくらいのことはしたらどうなんだ?

まあこういうのを一般的に「豚に真珠」「猫に小判」「馬の耳に念仏」というのだが、ダイヤモンドの価値を理解できない犬畜生がダイヤモンドなんか持っていたって無駄だ
それと同じように、鳥山明先生や彼の描いてきた作品群がいかに凄いかを体験はおろかジャンプ漫画の歴史の中で正確に把握すらしていない者が『ドラゴンボール』の価値を理解できるわけがない。
漫画の神様・手塚治虫大先生が唯一後継者として認めた天才作家がいかにあらゆる漫画界全てにおいて影響を与えて今日に至っているのかを理解できていない無知な犬畜生が偉そうに難じるなという話である。

に・わ・か

たった三文字のひらがなを国民的司会者が敢えて使ってみせたことの意味を考える所から全ては始まるし、そういう思考力・想像力が今を生きる若い世代の人たちにどれだけあるかというと、あまり期待はしない方がいいだろうな。

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