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【BtoCか】スーパー戦隊シリーズにおける「再現性」と「独自性」について考えてみる【BtoBか】

昨日の記事で私に対する誹謗中傷をXにて投稿した方へのdisを交えながら書いたわけだが、おかげで改めて最近私がスーパー戦隊シリーズの批評において何に行き詰まっているか?をはっきりと言語化することができた。
別にその私を「基地外」などという言葉を使って誹謗中傷した誰かさんのおかげというわけではないが(間違っても感謝の気持ちは一切ない)、同時にビジネスでも言われる「再現性と独自性」がキーワードだと分かった。
元々私の中で潜在意識の部分にぼんやりと浮かんでいたものが今回をきっかけに改めて具体性を伴って言語化できるという状態になったというわけだ。
ただ、今回話すようなことは思考の抽象度が限りなく低い人には理解できないであろう話であることは重々承知の上で語るので、「全くピンと来なかった」と言われたとて構わない、あくまで私が理解するために忘備録として書き残しておく。

最近ビジネスを中心によく聞かれるようになった言葉として「再現性」があるわけだが、皆さんもよく街中で歩いていたり仕事場でこんな話が出てきたりしないだろうか?

「私たちがやってる仕事って「再現性」がないよね」
「イチローや大谷は「再現性」は低いが「独自性」は高い」

こういう言葉を聞くようになっただろうが、「再現性」とは「それをどれだけ多くの人が再現することができるか?仕組み化できるか?」であり、「独自性」とは文字通り「それは決して他人に再現できないものである」ということだ。
両者は基本的には両立することなど決してなく、いわゆる善と悪、規律と自由、公と私、天使と悪魔のような二項対立というか二律背反なものであることに気づいてない人も少なからずいるだろう。
ましてや子供向けの特撮作品であるスーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズにおいてまでそこまで踏み込んで考えている人は尚のこと少ないわけであって、だから私を誹謗中傷してきた人も今回の話は決して理解し得ないだろうと、バーミャみたいにな(笑)
私の文章を読めばその瞬間だけは「分かったつもり」になれるだろうが、きちんと自分の中で咀嚼して吸収するプロセスを経ていないと真の意味で「分かっている」「理解している」ことにはならない

今回の話は「篩にかける」ためのものなので、「わからない」「理解できない」人に関しては容赦無く置いていく旨をご了承いただきたい。

わかりやすくスポーツ選手の話で喩えると、イチロー選手の振り子打法やレーザービーム、大谷選手の二刀流は「独自性」は高いが「再現性」はないものであることは周知の事実だ。
あるいは私が大好きなプロテニスの話で言えば最近また盛り返してきている錦織圭選手でいえば、「エアK」と呼ばれる彼のスタイルは他の誰にも真似できないスタイルだろう。
仮に真似できたとしても彼の上位互換と言えるくらいの天才か化け物クラスしかいないものであり、いわば超一流の「天才」と世間に称される人たちのスタイルは「再現性」がない
ということはすなわち「属人化している当人以外の人には技の原理や仕組みが理解できず再現もできないブラックボックスである」ということだ。

一般的に、ビジネスにおいては、「独自性が高い」ものは「BtoB(法人向け)」、「再現性が高い」ものは「BtoC(一般消費者向け)」になる傾向がある(あくまで傾向であって絶対ではない)。
ということは、これを芸術の分野に転用すると、「独自性が高い」とはすなわち「属人化している=その作家にしか再現しようがないもの」であり、「再現性が高い」とはすなわち「属人化していない=その作家じゃなくても再現できるもの」ということになるだろう。
これを基準として例えばスーパー戦隊シリーズを見ていった場合、例えば『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)までを「独自性」と「再現性」で落とし込んでみると以下のようになる。

【再現性も独自性も高いもの】

『電撃戦隊チェンジマン』(1985)・『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)・『星獣戦隊ギンガマン』(1998)

【再現性は高いが独自性が低いもの】

『電子戦隊デンジマン』(1980)・『太陽戦隊サンバルカン』(1981)・『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982)・『科学戦隊ダイナマン』(1983)・『超電子バイオマン』(1984)・『高速戦隊ターボレンジャー』(1989)・『地球戦隊ファイブマン』(1990)・『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)・『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)・『電磁戦隊メガレンジー』(1997)・『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)

【再現性は低いが独自性が高いもの】

『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)・『バトルフィーバーJ』(1979)・『超獣戦隊ライブマン』(1988)・『五星戦隊ダイレンジャー』(1993)・『激走戦隊カーレンジャー』(1996)・『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)

【再現性も独自性も低いもの】

『ジャッカー電撃隊』(1977)・『超新星フラッシュマン』(1986)・『光戦隊マスクマン』(1987)・『超力戦隊オーレンジャー』(1995)

大体この4種類に大別されるかと思われるが、まず【再現性は高いが独自性が低いもの】から説明すると、このカテゴリに属するのはいわゆる「基礎」から「標準」を担ったものが多く、そんなに込み入った複雑なドラマがない。
このカテゴリに属するものはいわゆるBtoC(一般消費者向け)であるから新規層を獲得するにはもってこいであり、また後続に継承されるような土台となりやすいものばかりである。
難を言えば作品自体はそんなに凝った作りではないがために「一度見てしまえそれで十分」というものがほとんどであり、とっつき易いが独自性は低いために簡単に真似されてしまいやすく、長い歴史の中で見たときに魅力が薄れ易い
だから点数でつけるとするならB(良作)〜C(佳作)、つまり60〜70点代のものばかりであろう。

次に【再現性は低いが独自性が高いもの】だが、このカテゴリに属するのはいわゆる「発展」から「応用」を担うものがほとんどであり、先ほどまでとは逆に完全にコアなファン層に向けた複雑なドラマや凝った展開が多い
ビジネスで言えばBtoB(法人向け)に近いものであるから新規層の獲得はまず見込めないし、またその作品の独自性・個性と呼ばれるものはその作品を作っている作家にしか再現できない難易度の高いものばかりだ。
特に『超獣戦隊ライブマン』(1988)・『激走戦隊カーレンジャー』(1996)・『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)辺りはシリーズ屈指の「異色作」と呼ばれ、作り手にしか再現性がなく属人化したものの典型だろう。
初代「ゴレンジャー」も今でこそ「偉大なる原点」と言われているが、放送当時はむしろイレギュラーの塊=異色だったわけであり、以降の世代には再現できない要素ばかりであり、ランクとしてはA(名作)〜C(佳作)、60〜90点代になるだろうか。

そして私がS(傑作)〜SS(殿堂入り)、即ち95〜120点代の作品として挙げている『電撃戦隊チェンジマン』(1985)・『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)・『星獣戦隊ギンガマン』(1998)は【再現性も独自性も高いもの】、すなわち「BtoB」かつ「BtoC」という奇跡の作品である。
いずれもその時点での「集大成」と呼ぶべき破格のクオリティの高さでまとまっており、後続の作品がお手本にし易い再現度の高さその作品にしか再現できない独自性の高さが例外的とさえ言えるほどのバランスで調和が取れたものを指す。
しかも面白いのはこの3作のいずれも成功パターンが違うことであり、「チェンジマン」は物語が進むに連れて規模が壮大になる足し算=帰納法であり、「ジェットマン」は80年代戦隊を徹底的に解体して逆算的に答えを導く引き算=演繹法で作られている。
そして「ギンガマン」は90年代戦隊シリーズが打ち出した新機軸を引き算・圧縮させつつ意味内容(作劇)において独自性の高い新機軸のドラマを打ち出すという両者の合算=弁証法で作られているものだ。

そして【再現性も独自性も低いもの】に分けられた戦隊はいずれもが再現性の高さの構築にも独自性の高さの獲得にも失敗してしまった作品ばかりであり、ランク付けをするならE(不作)〜F(駄作)0点〜40点代となる。
これらに関しては運が悪かったのか企画に問題あったのかは定かではないが、初期の段階で明らかに躓きが感じられる作品ばかりである。

さて、大まかに分類してみたが、大方の評価としては「再現性が高い=大衆ウケしやすい」か「独自性が高い=マニア受けしやすい」が戦隊ファンの評価基準になるのではないだろうか。
しかし、「大きなお友達」と呼ばれる人種は「再現性は低いが独自性が高いもの」をとにかく褒めたがる「自称通」が多いので、私はあえて彼らに対する抵抗勢力という意味合いもあって「カーレンジャー」にしろ「タイムレンジャー」にしろA(名作)以上に評価していないのだが。
批評的な観点で言えば、「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」よりも「ゴレンジャー」「カーレンジャー」「タイムレンジャー」を褒める方が楽なのは間違いない、その作家の表現したいところが明確でそこだけ褒めてればいいしその方が「通」っぽく見せられるから。
私はその上で「再現性の高さ」と「独自性の高さ」を絶妙なバランスで両立している理想の作品こそが真のS(傑作)以上の作品として評価しているのであり、つまるところ凄まじく理想が高いということになる、これは親友の黒羽翔も指摘していたことだ。

私に言わせれば、時代性も国籍も人種もあらゆるものを超えてしまう普遍性と同時にその作家にしか表現できないものもしっかり織り込まれている作品を褒める方が大変に難しい
難しいからこそこちらとしては批評し甲斐があるし何年経っても魅了し続けてくれると思うわけで、それは単なる作品の良し悪しとか演出がどうのこうの、面白い話かどうかなんて低次元の話ではない
両立し難いはずの要素をきちんと両立し得ているものにこそ唯一無二の独自性があると思うし、それを分かって話をしてくれる人しか最近は話したくないわけだ。

子供向け作品を批評することの真の難しさはそこにあって、単純に「子供ウケするもの」だからいいわけじゃないし、その逆張りで「中高生以降に刺さるもの」だからいいわけでもない
双方を包括しつつも真芯の部分でしっかりと見るものを捉えて離さない凄みを持った作品を見たいわけで、それを満たすのがスーパー戦隊シリーズだと「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」の3作だということになるだろうか。
だから以前に述べた「『星獣戦隊ギンガマン』はスーパー戦隊シリーズを代表する作品ではない。そんなものは『百獣戦隊ガオレンジャー』あたりにでも任せておけばいい」はそういう意味で言った言葉である。
要するにスーパー戦隊シリーズを代表するような作品というのは「再現性は高いが独自性が低いもの」辺りにでも任せておけばいいし、またマニア人気が高いものは「再現性は低いが独自性が高いもの」に任せておけばいいという寸法に落とし込める。

そのどちらでもない間のバランスを取りに行くのが私のスタンスなので、そこを理解できない人には今後私が書く記事や文章についてくのは難しいかもしれない、酷な話ではあるが。
例えそのスタンスが私以外に居なかろうが、少数派だろうが敵を作ろうが、私はむしろそれらを喜んで受け入れて今後も突っ走っていこう。
昔からそうやってきたわけだし、今更たった一人で何かをすることなんて恐るるに足らず、例え元エピゴーネンを敵に回したとしても構わない、むしろかかってこいというぐらいのスタンスで行こう。

左右極限を知らねば中道に入れず。

合掌


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