見出し画像

『忍風戦隊ハリケンジャー』巻之一『風とニンジャ』

◾️巻之一『風とニンジャ』

(脚本:宮下隼一 演出:渡辺勝也)


導入

3人の落ちこぼれから始まるカット

「忍者、それは古来より人知れず、影の如く、飛び、消え、戦う強者たち。でも、この3人は……」

『五星戦隊ダイレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』でお馴染みの宮田浩徳の語りで始まる「忍者戦隊」の2作目にして「ガオレンジャー」に続く「00年代戦隊」の2作目、それがこの『忍風戦隊ハリケンジャー』である。
まず本編のレビューに入る前にシリーズ全体の共通項として語っておきたいこととして、スーパー戦隊における「忍者」とはやはりどこまで行こうと「NINJA」の領域を抜け出ない作品しかないということだ。
これは決してスーパー戦隊シリーズではなく、そもそも東映特撮における「忍者」自体が本当の意味で「忍者」として描けた試しのある作品が1つもないということが大きく影響しているわけであるが。
東映時代劇という文脈で見た時に「忍者」の代表作として挙げられるのはやはり『仮面の忍者赤影』『忍者キャプター』『世界忍者戦ジライヤ』あたりがテレビシリーズとして挙げられるであろうか。

その中で比較的史実の時代劇に近い作りの「忍者」と呼ばれる作品は『仮面の忍者赤影』だが、まずこの番組からして初期はともかく番組が進むに連れて時代劇っぽさは薄れていってしまう。
また、いわゆる「抜け忍」としてのダークヒーローな忍者ものはどちらかといえば『仮面ライダー』がそれを志向したこともあり、本格的な「忍者」の時代劇がテレビシリーズで再現されたことはない
昭和の作品群の中で本格的な「時代劇としての忍者」が再現されたのはやはり白土三平の『サスケ』『忍風カムイ外伝』辺りだが、殆どはやはり「ファンタジー」としてのNINJAという趣が強い
だから、スーパー戦隊シリーズにおける「忍者=NINJA」というイメージになってしまうのは、そもそもスーパー戦隊自体がファンタジックなジャンルであることと決して無関係ではないだろう。

そんな中で「カクレンジャー」以来となるNINJAモチーフの本作は敵も味方も全てNINJAであり、高度な忍術合戦を行い、更にヒーロー同士の派閥争いなども盛り込まれているそうだ。
敵も味方も同じモチーフで戦うという要素は同年の『仮面ライダー龍騎』もそうであり、これは同時代の『バトルロワイヤル』がブームでありそれをいち早く取り入れたといっても過言ではないだろう。
また、主人公のレッドが前作『百獣戦隊ガオレンジャー』に引き続き直情径行の単純熱血であり、メンバーがスリーマンセルという要素は同時代に丁度流行となった『NARUTO』の影響もあると見ることができる。
いずれにせよ、この時代には既に過去のものとなりつつあった日本人のアイデンティティーの1つであったものを取り戻そうという捲土重来の動きが現れていたことは間違いない。

宮下隼一×渡辺勝也のベタすぎる「守り」の文体

古典的なテロップとアップ

本作のパイロットを見て最初に感じたことは宮下隼一脚本と渡辺勝也演出によって手掛けられた本作のパイロットはあまりにもベタ過ぎる、もっと言ってしまえば「守り」の文体であるということだ。
宮下隼一はどちらかといえばメタルヒーローで長いこと活躍していた人物であり、渡辺勝也もまたスーパー戦隊シリーズにおいて長いこと助監督の立場が長かった人であることから、互いに東映特撮のノウハウを知悉している。
逆にいえばそれが本作のパイロットにおいてはそれが裏目に出たという印象が強く、前作に比べれば幾分かスーパー戦隊の「古典的デクパージュ」に対するリスペクトは感じられる作りではあろうだろう。
しかし、本作に関していえばそれが故にどうも「過去作品の焼き直し」の領域から抜け出ないことが物足りなさとしてはあって、だからいかにも保守的に過ぎる文体になってしまった感がある。

あらすじだけを追えば、前半で3人の訓練シーンと里の朝礼→突如現れた敵組織により味方側が壊滅状態→たまたま生き延びた3人が伝説のNINJA「ハリケンジャー」に指名され初陣→幹部たちの総登場という構成になっている。
少なくとも物語上の論理的整合性なる部分での矛盾・破綻はないし、前作に比べて画面がもっさりし過ぎている感じはない訳だが、ぶっちゃけこのテンポで許されるのは精々『電磁戦隊メガレンジャー』までであろう。
「メガレンジャー」の前半までは日曜朝ではなく金曜夕方だったこともあり、放送時間の尺が短かったのでドラマの部分を展開する余裕がなく、多少2話まで後回しになっても致し方ないところはあった。
転換点はやはり『星獣戦隊ギンガマン』であり、あの作品で小林靖子×田崎竜太が凄まじくテンポが早く、尚且つアクションシーンも含めた斬新な語り口と戦い方により一気にパイロットのスピード感とテンポを早めることに成功している

前倒しで語ると、「ギンガマン」のパイロットが何度見ても素晴らしいのは青山親子の森探索・ギンガの森の訓練シーンと戦士襲名の儀式→バルバン復活と襲来→ヒュウガの死とリョウマの覚醒→レッド1人でバルバンの幹部を圧倒、という濃い内容を無駄なく凝縮していることだ。
本作がラストでようやく敵が主人公たちの目の前に現れるという展開を「ギンガマン」ではものの14分くらいで済ませて、アクションシーンにしてもメインのギンガレッド以外の4人を15秒〜30秒でサッと映し、その分ギンガレッドのアクションに花を持たせている。
これに対して本作は人数を3人に絞っているのに一人一人の名乗りからアクションのテンポとスピード感が無駄に長く感じられ、更に最後は合体武器のトリプルガジェットで仕留めるという流れにしているため、どうしても流れがぶつ切りになってしまう。
しかも幹部たち全員が揃っている状況でその流れになるならともかく、たかがジャカンジャの一般怪人一体に対してこれであるから、明らかに尺余りというか、無駄な時間とカットの使い方をしてしまっているように感じられて勿体ない。

何が言いたいかというと、既に宮下脚本もナベカツ演出も90年代前半の文体が染み付き過ぎているが故に、その文体を00年代前半のそれにかけて更新と高解像度化が出来ていないのである。
まあそれをいえば前作「ガオレンジャー」の武上純希と諸田敏の文体も物凄くもっさりしていてスピード感がまるでなかったのだが、これは00年代前半の戦隊が抱えていた課題点であったかもしれない。
「ギンガマン」「タイムレンジャー」でスーパー戦隊シリーズ文体というか語り口が非常にスタイリッシュかつスピーディーになったにも関わらず、「ガオレンジャー」〜「アバレンジャー」にかけて後退している。
子供向けだからある程度「わかりやすさ」を意識しているのはわかるのだが、こと宮下脚本とナベカツ演出の文体が今見直すと違和感があるのは尺に対して映像作品としての文体と密度が合っていないことであろう。

西田健のインパクトが強過ぎるが、一番目立つのは冒頭の素面アクション

一番テンポのいい素面アクション

1話全体を通して見ると、視聴後の印象としては西田健のインパクトが最も強いと言われるが、個人的に「映像演出」として最も素晴らしかったのはやはり冒頭の3人が行う素面アクションであろうか。
今だとCGやモーションキャプチャーなどで生身アクションも誤魔化すことは出来てしまう訳だが、本作の冒頭できちんと変身前の3人の訓練シーンを生身で見せているのは素晴らしい。
もちろん工夫自体はしてあって、素早く動くところをスーツアクターの吹き替えで、表情がクロースアップになるところを変身前の役者で演じさせている訳だが、この部分が個人的には非常に印象に残った。
西田健も確かに存在感があって素晴らしく、彼の迫力や願力などは確かに素晴らしいのだが、やはり「特撮」の醍醐味の1つはアクションにあることは間違いなく、再度見直して改めてこの絵だけでも見た価値はある。

西田健が素晴らしいのは当たり前過ぎて逆にそんなに褒めるべきところではないだろう、脚本も演出も最初はベテランの西田健と高田聖子を味方側に配することで、3人の演技の拙さ・不安定さをカバーするのが目論見なのだから。
それよりもこういう物語とは直接関係のない細部があることをどれだけ見つけられるかは大事であり、この訓練シーンは背景にある滝などもそうだが、映し方としては距離感やライティングも含めてとても良かった。
変身前の塩谷瞬・長澤奈央・山本康平に関しては演技力や台詞回しの拙さに関してはまあ許容範囲内にしても(少なくとも千葉麗子や西川俊介に比べたらまだ見られる方)、「ヒーロー」としての存在感はまだ確立できていない
これは努力でどうにかなるものではなく、それこそ脚本と演出の力による部分が大きく影響するのだが、やはり1話の段階で「ヒーロー」ではなく「そこらへんに居そうな若者」にしか見えないのは厳しいだろう。

逆にいうと、ナベカツはこの冒頭のシーンの出来に満足してしまって、後のシーンは全体的に物語に沿う形で流し気味に撮ってしまているのではないか?という疑問も生じてくる。
あるいは全てのシーンを気合いを入れて映そうという情熱が空回りしてしまい、かえってどこをメインで見せたいのかが分かりにくい構成になってしまっているか……クオリティーから判断すると後者であろうか。
クロースアップの多様に関してはおそらく長石多可男監督が築き上げた演出の継承であるが、長石監督の場合は本当にここぞという時にしか寄らないので、あらゆるシーンで必要以上に寄ってしまうのは悪癖である。
映画でもそうだが、クロースアップを多用してしまうのは下品な監督のすることであり、だからこの時点でのナベカツはパイロットに関していうならそこまで上手いとはお世辞にも言えないだろう。

また、せっかく山・森・川といった自然が多めのロケーションでたっぷりと撮っている割には(戦隊のパイロットは都会の街中のロケが多いので)、そのロケーションにも色気がまるで感じられない
少なくとも本作における自然は「主人公たちが忍術を学び訓練する場所」という物語に沿った役割としてしか機能しておらず、それ以上の受け手の感性を揺るがす映像美には仕上がっていないのだ。
秘密基地のやり取りに関しても洞窟っぽいところをロケ地にしているのはやや珍しさが感じられたのだが、それ以上の何かを感じることはなく、もう少し撮りようはあっただろうと思う。

IQバトルなのか番長バトルなのかよく分からない初陣

1話からいきなり異空間バトル

そして尺を多めに取って描かれている変身後の忍術合戦なのだが、描写を見る限りIQバトル(強さに根拠がある理論的な戦い方)なのか番長バトル(強さに根拠のない直感的な戦い方)なのかがイマイチ伝わりにくかった

「勝負はこれからだぜ!」
「根性だけは誰にも負けないわよ!」
「最後まで諦めないぞ!」

初陣でいきなりこういう精神論・根性論めいた「諦めない!」の叫びを口にしていることからして脇が甘いと思うのだが、変身後のアクションシーンが正直そこまで素晴らしい忍術合戦には見えなかった
確かにグライダーを使ったり分身を使ったりと一通りの忍術は使いこなしているのだが、その後異空間でのバトルに入った途端に忍術関係ない根性論が物を言い始めると途端に強さに根拠がなくなってしまう

全く「忍者」らしさの感じられない合体武器

更にその後、トリプルガジェットなる3人の武器を合体させてのトドメに至っては武器そのものに全く「忍術」の感じがないいかにもな「戦隊的武器」なので、そこも個人的には微妙だった。
中途半端に「戦隊」であるという要素を強調するために合体武器を出させるくらいだったら、多少文法破りになったとしても個人で圧倒して倒すという流れにしてもいいのではなかろうか。

まあこれは「カクレンジャー」「ニンニンジャー」にも言えるNINJAモチーフの戦隊の難しいところなのだが、如何にして「忍者っぽさ」を三者三様に差別化させるかが難しい
本作は一応「サンバルカン」「ライブマン」方式である「陸海空」を採用してレッド=空、ブルー=海、イエロー=陸という色分けにしているのだが、それが変身後の差別化になっているかというとなっていない。
ここら辺は同時期の『NARUTO』の方が上手く差別化は図られていて、うずまきナルト=番長バトル、うちはサスケ=IQバトル、春野サクラ=番長+IQのハイブリッドという風に色分けはされていた。
つまりど根性要素をナルトに、高度な駆け引きをサスケに、そしてその他の回復術や繊細なチャクラコントロールをサクラに任せるという風に差別化することで上手くキャラを立てている。

まあこの辺りは『五星戦隊ダイレンジャー』から徐々に「想いの強さが力になる」といった番長バトルの要素が強まっていて、前作「ガオレンジャー」で完全に番長バトルに舵を振り切ったというのは大きい。
無論番長バトル自体が悪い訳ではないのだが、あまりにもそれに偏りすぎてしまうとバトルが結局はただの「強さのインフレ」でしかなく、「高度な駆け引き・戦術・戦略」といった部分が無視されてしまう。
スーパー戦隊は元々『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『太陽戦隊サンバルカン』までの時代、すなわち上原正三×竹本弘一が作り上げた草創期は緻密な戦略と戦術に基づく高度なIQバトルに基づくチームワークであった。
それがどうもこの00年代に入って軽視されるようになってきた要素ではあり、せっかく「忍者」をモチーフにするのであれば、その要素も大切にして欲しいのだが、ここら辺は後半に向けて改善されるのであろうか。

何れにしても、この1話で「ハリケンジャーならではのアクション」を魅力的に演出できていたかというとそうは言いがたく、明らかに前作の短所が尾を引いているというのが見て取れる
思えば『炎神戦隊ゴーオンジャー』までいわゆる直情径行な「バカレッド」が続いたのに伴い、戦い方そのものが変質してしまったのは間違いなくこの時期に形成された悪しき風習のせいであろう。
そう考えると、スーパー戦隊の歴史の変遷を「アクションの変化」という点で1つ見るなら「IQバトルと番長バトル」「チームワークとスタンドプレー」は新たな批評の文脈になりそうである。

「ポスト90年代戦隊」をどう構築していくのか?

架空性が高くなっていく実写特撮

こうして見ていくと、改めて私がなぜ00年代以降の戦隊を総体的に微妙だと思っていたのか、その理由がこうして言語化していくことで少しずつではあるが明かされている感じがある。
『未来戦隊タイムレンジャー』で綺麗に「90年代戦隊」への決別を果たしたスーパー戦隊シリーズは『百獣戦隊ガオレンジャー』から「空虚な明るさ」のみが画面を支配するようになると書いた。

その「空虚な明るさ」の中身をこうして作品自体を真剣に見ていくとはっきりと因数分解できてしまうのだが、一番の課題は「ポスト90年代戦隊」をどう構築していくのか?だったのではなかろうか。
『鳥人戦隊ジェットマン』で「80年代戦隊」への決別を果たした筈のスーパー戦隊シリーズは『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『忍者戦隊カクレンジャー』で「ファンタジー」を新たな形式・文体として導入を試みた
その後『超力戦隊オーレンジャー』にて「古典的デクパージュへの原点回帰」を図ったもののこれが大失敗、その後『激走戦隊カーレンジャー』〜『星獣戦隊ギンガマン』の3作をかけて「解体と再構築」が行われる。
そして『救急戦隊ゴーゴーファイブ』という「最後の90年代戦隊」を経て『未来戦隊タイムレンジャー』で解体が行われたのだが、「ガオ」「ハリケン」「アバレ」の3作の流れはそのまま「ジュウ」「ダイ」「カク」の流れと酷似しているだろう。

この3作が行っているのは如何にして「少年漫画的要素」、同時代の『ONE PIECE』『NARUTO』『BLEACH』『シャーマンキング』が持っていた「番長バトル」や「直情径行な熱血」の要素を1つの文体として取り込めるか?である。
無駄に叫ぶ主人公が多くなったたことや強さを裏付けるための根拠が希薄化した勢い・ハッタリ・外連味任せの戦い方がより前面に押し出されるようになったのは決して平成ライダーとの差別化だけではない
元々戦隊シリーズが持っていた、いわゆる「派手さ」と「時代劇の形式」の中にある「外連味」と少年漫画に代表されるスポ根の「外連味」をいかに掛け合わせて熱く面白く工夫できるか?を形成しようとしていたのであろう。
CG頼りの演出が多くなってきたのも、そういう少年漫画的な派手さは漫画・アニメだからこそできたハッタリであったが、この時代になると実写の方でもそれを取り入れようという試みが増えてくる。

つまり実写特撮がより漫画・アニメのような外連味を、そして逆に漫画・アニメの方がより実写のような「普通っぽさ」をより希求するようになっていったということの表れではなかろうか。
そういえば海外でも実写特撮で『ハリーポッターと賢者の石』『ロード・オブ・ザ・リング』のような凝った架空性の高いファンタジー映画が作られるようになていたが、これもまた00年代初頭の実写特撮の1つのブームだったのだろうか。
総合評価はD(凡作)100点中50点であり、如何にも「過渡」であることがまざまざと見て取れるパイロットの典型である。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?