『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』感想〜話は通俗的な三流文学だが、映像美は一流の名作〜
ふと気が向いたので、久々に『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)を鑑賞したので、改めて感想・批評をば。
評価:A(名作) 100点中80点
改めて見直してみたのだが、富野由悠季は映像のセンスこそ一流だが話のレベルは所詮通俗的な三流文学程度のものしか書けない作家ということである。
批評家・宇野常寛は「ドラマがすごい」「富野由悠季が描いたニュータイプの先に待ち受けているのはディストピアしかないことまで予見してしまった」とあった。
だが、それらはあくまで結果論に基づく後付けの印象でしかなく、私が本作を名作だと褒めているのはなんといっても映像が備えている「画面の運動」にある。
しかも富野に限らず宮崎駿や押井守に対してすらそんな読み解きをしていたので、私は全く共感できなかったが気になる方は読んでみるといいだろう。
大きな感想は2点あって、いかにも富野監督らしい「人間同士のエゴが絡み合った結果白痴な殺し合いとエロに発展」という初代の頃からのワンパターンなお話の構成で、ドラマシーンは退屈というのが1点目。
そして2点目がそれらの話を通じて表象されている登場人物の身振り手振り・ロボアクションといった「画面の運動」は洗練されていて上手なので、うまく一本の映画としてまとまっているということだ。
富野由悠季に限らないが、何で日本アニメの作家たちってこうも女という生き物に夢を見過ぎているんだろうね?新海誠や庵野秀明も結構女に甘やかされたい感じだし。
まあ別に女が出てくるのは良いのだが、せめて小津安二郎くらいの立派なルックと洒落たセンスで上品に魅せられないものか、もしくは北野武みたいに女の抒情をズバッと切ってしまえないものか。
ということで、今回は悪い点を先に2点ほど述べ、次に良い点を2点述べて感想に返させていただくが、いわゆる政治や心理などの読み解きはしないので他を当たって頂きたい。
戦後日本史の痛烈な批判に名を借りた痴情の縺れ
はっきりいって本作で描かれているドラマ・お話に関しては冒頭でも書いた通り通俗的な三流文学で、初代の頃から悪い意味で変わっていない富野監督の悪癖である。
特に「汚い初音ミク」ことクェス・パラヤをシャアが懐柔するくだりやハサウェイが無理やり戦争に参加するくだりは荒唐無稽にも程があり、リアリティーもクソもない。
またミクは話が通じる通じない以前に人間としての情緒があまりにも不安定で、しかもその暴走が周囲にとんでもない迷惑をかけるので生理的嫌悪感しか湧かないのである。
といって、主人公のアムロに共感できるかといったらそんなわけでもなく、彼も中途半端に良識人ぶっているが根幹の部分でララァのトラウマを克服できない子供であろう。
実際にシャアもアムロをそのように批判していたし、そのアムロを批判するシャアもシャアでギュネイが言っていたようにナナイという愛人を作った挙句ララァに呪縛された情けない男である。
表向きはエコテロリストにしてジオン公国総帥でありながら、内面はただ女に抱っこして甘えたいだけの男であり、この酷さといったら「仮面ライダー555」ばりであろう。
世直しがどうのこうのといった辺りをしてファンはやたらと作品の出来に直接関係のないテーマを考察していたが、あれは富野監督が仕掛けたブラフであり、衒学的で中身は全くない。
だが、表向きでもああいう建前を入れておかないとこんな痴情の縺れを劇場用エンターテイメントとして成立させることができないから、それっぽく取り繕っただけだ。
「世直しのこと、知らないんだな」から始まるアムロの痛烈な戦後日本史の批判にさしたる意味はない、アムロが発するそうした建前は何の効力もない綺麗事である。
実際にシャアは「世直しのことなど考えていない」といっていたし、ほかの登場人物も誰一人として真面目な意思を持ってこの戦争に臨んでいるものなどいない。
それからこれは初代の頃からどうしても気になっていたアムロの癖なのだが、アクシズから撤退してνガンダムに乗る時にアムロが襟元を正す癖が嫌いだ。
なぜかというと端的に画として野暮ったいというか見苦しく下品だからであり、初代の頃からそうだったがアムロは所詮社会不適合のガキなのだと思えてしまう。
私はどうも「リアリティー」とか「等身大の生活感」とかいって登場人物にさせているこうした身振り手振りがあまりにも描写として稚拙で見ていられない。
これでは世界で通用する映画は作れないはずだし、痴情の縺れで戦争に発展するという流れに私は全く共感できない、基本的に戦いの世界で女は邪魔だからである。
クェスを見ていればわかるが、女が女性性を捨てきれないまま目先の感情で突っ走るとどうなるかはαアジールに乗ってからチェーンに撃たれる最期からもわかるだろう。
本作に限らないが富野ガンダムにおいてエゴに走ったものは真っ先にやられるというルール自体は徹底しているが、ドラマは別に緻密でも何でもなくむしろ安っぽい。
衆愚政治批判はいいが隕石落としで潰せというのは安直すぎる
これはもう最初に見た時からずっと変わらないのだが、シャアの衆愚政治批判はいいとしても隕石落としで地球を潰せというのは幾ら何でも安直すぎやしないか?
よくシャアは富野監督の本音を代弁するスピーカーと公言していたしその通りだと思うのだが、それが事実ならこの発想やセンス自体がそもそもダサすぎる。
老害とはまさにこういう人物のことをいうのであり、アクシズを地球に落として溜飲を下げようとするのは下品な三流のすることであり、「2001年」「スターウォーズ」に対する冒涜だ。
私はもともとテレビシリーズをやっていた時からの富野監督が作品を通じて発してくるルサンチマンに微塵も共感できないのだが、これが治るどころか益々酷くなっている。
要するに何が言いたいかというと、富野監督は「深刻めいたことを語らせればそれがドラマになる」という思い込みに今でも囚われていることが本作の文芸面をみれば一目瞭然だ。
ガンダムシリーズはよく「Gガンダム」以降が子供向けに話が幼稚化したとか「SEEDは同人レベル」とかいった批判が目立つが、オリジナルの富野ガンダムの時点でそもそも話に深みなんてない。
それらしく紡がれる登場人物の言葉や全く噛み合っていない会話のやり取りは全てこれから褒めることになる「画面の運動」を目立たせるための契機であるといえる。
そもそも富野監督自身「映画的なもの」が好きで「映画とは動く画である」と認めてしまっているのだから、本来は脚本や文芸の部分ができる人ではない。
それを自分も文芸が出来るであろうと勘違いして脚本に突っ込んだ結果がこれであり、もはや完全に仕事が属人化してしまっているといえるだろう。
ブライトにしたって自分の息子が侵入してきたのを叩くのは構わないのだが、では自分の息子が激情に駆られて殺す必要のないチェーンを殺したことの是非は問われない。
クェスにしたってそうであり、自分の父親を誤って殺しておきながらそのことに全く向き合わず徒に力を暴走させているだけで、そこに全くドラマ的な深みなぞないのだ。
そう、ファンがよく口にする「ガンダムはドラマが深くて高尚」などというとのは全くの嘘であり、それらしくアクションを成立するためのでっち上げでしかない。
だから、白鳥に模してララァが出てきたりすることもそうだが、本作で描かれている政治や作戦の描写に関してはあまりにも見立てや作りとして雑であろう。
こんなもののどこに理知的な意図やロジックがあるかわからないし、そんなものを意図したところでこれから述べる評価には全く関係ないことである。
全面的に文芸面だけで評価するならば一顧だにする価値のない巷で売られている三流のエロ小説やライトノベルと大差ないかそれ以下だ。
だが、そんな本作が何故に映画として素晴らしいかというと、「画面の運動」がとにかく素晴らしいからである。
「殴る」ことと「抱く」こと
本作でとにかく強く目立つのは「殴る」ことと「抱く」ことであり、これは初代ガンダムからずっと続いている富野ガンダムの一貫した主題であろう。
まず「殴る」ことに関してはファンから「殴り合い宇宙」なんて名前がつけられるのだが、そこには全く痛々しさが感じられない。
例えばアムロとシャアの組んず解れつの殴り合いは前半の等身大戦とアクシズ後半の決戦編で見られるが、アニメの絵で見ると不思議と痛々しく見えない。
いわゆる「Gガンダム」みたいに殴り合いがデフォルトというのとも違い、大の大人が2人で殴り合っていることのおかしさがここで露呈しているのだ。
初代ガンダムの頃からそうだが、富野ガンダムにおける殴る描写は深刻ぶって描いているものの、絵の動きとして見るとむしろギャグのようである。
特にνガンダムがサザビーを殴るところの腕が遠近法でビヨーンと伸びる絵のタッチはギャグと言わずして何といえばいいのかわからない。
またブライトがハサウェイを殴るところもそうだし、ナナイがクェスを殴るシーンも「激しさ」の表れの割にそんなに痛そうに見えないのだ。
それよりも言葉での殴り合いの方がよほど印象的であり、セリフだけを抜き出して見ると実に言葉の暴力で殴り合っている。
だが、それと同じくらい印象的なのが「抱く」ことであり、コックピットといい2人きりのシーンでとにかく抱擁の描写が印象的だ。
アムロがチェーンを、そしてナナイがシャアを抱くところが割と印象的なのだが、2人の関係性はそれぞれに「恋人」と「愛人」で違う。
だが、どちらも戦いの最中だというのに女を抱く、あるいは女に抱かれている時点で精神的には幾分甘えん坊な人という印象が際立つ。
しかも2人は全く同じララァという女を巡って殴り合うのだから、これが滑稽と言わずして何なのかと私は大爆笑してしまう。
そう、ガンダムシリーズはとても深刻故に登場人物のドラマに深入りしようとすればするほど泣けてくる仕組みだ。
だが、それを俯瞰して見ることによってむしろ滑稽さが際立ち、深刻なシーンなのに妙におかしな笑いがこみ上げてくる。
おそらくこの「逆襲のシャア」を見て大笑いする人なんて数多くいる映画ファン・ガンダムファンの中でも私くらいのものだろう。
上記で三流だと批判した登場人物たちが見せるこうした身振り・手振りは無意識の滑稽さとしていずれのシーンでも画面に表象されている。
宇宙空間での立体的な戦闘シーンの極致
そして本作最大の見所は何と言っても宇宙空間での立体的な戦闘シーンであり、この空間をたっぷり使った奥行きとスピード感ある戦闘シーンとしては間違いなく本作で極致に到達した。
元々初代や「イデオン」の頃から富野監督の宇宙空間の描写のセンスは非凡なものがあったが、本作のνガンダムとサザビーを中心とした戦闘シーンは凄まじい迫力である。
特にライフルもバズーカも全てを果たした後のビームサーベルでチャンバラをやるシーンは動き1つ1つがカッコよく、あの流麗ながらもスピーディーさと重みを両立したアクションは初代を超えた。
νガンダムの素晴らしさというとどうしてもパイロットのアムロの天才性に還元されがちだが、白VS赤という色合いも含めてガンダムシリーズのアクションとしては間違いなく最高峰だ。
このスピーディーなパノラマ感溢れる戦闘シーンに匹敵する動きを出したのはそれこそ「ドラゴンボール」の鳥山明なのだが、私の中でアニメ・漫画のカッコいい戦闘を挙げろと言われたら本作と「超ブロリー」が挙がる。
その意味もあって本作は「画面の運動」として最高のものを見せてくれたし、以後のシリーズでこのアクションを超える動きを見せてくれたガンダムは他にないと断言できる。
「Gガンダム」はどちらかといえば車田漫画に代表されるド派手な必殺技の外連味が売りだし、「W」も「X」も「SEED」以降もこのレベルにまでは到達できていない。
殴り合いのシーンは流石にギャグじみているが、ギュネイをやっつけるくだりもそうだし、またライフルの効果音も強力だということが伝わってくる。
まあそうは言ってもラストのアクシズ落としをサイコフレームの共鳴だか何だかで防ぐところか富野監督お得意のエスパーなので全くついていけなかったのだが、そこまでは素晴らしい。
そしてアムロとシャアの行く末がどうなったかも敢えて見せずに遠ざけて引きで写したことによってより渋い画に仕上がっており、本作は流石に「映画」だと認めざるを得ないだろう。
富野監督はどうしても自分の思想性を作品に強く込めたがるところが苦手なのだが、映像美というか画面の運動を演出するセンスは押井守や宮崎駿にも引けを取っていない。
だからこそ何だかんだ私は富野監督を一流の映像作家だと思ってしまうし、話がダメでも映像だけで見ていられるのは改めて本作の素晴らしいところではなかろうか。
カリスマの終焉
さて、本作をもって富野監督がどのように画面の運動として決着をつけたかというと、それは「カリスマの終焉」ではないだろうか。
アムロ・レイとシャア・アズナブルという2人の情けなくも美しくカッコよかった男たちが作り上げた一つの時代がここに終わりを告げたのである。
アクシズと運命を共にする2人は明らかに「カリスマ」でありながら、それが最終的に戦いに殉じる形で終えてしまったという意味では時代性が強い。
だがそれは決して本作が「過去」の作品ではなく、今もなお時代や国を超えて「現在」の作品として残り続けることを否定するものではないのだ。
ドラマも登場人物もぶっちゃけ三流の通俗的なものなのだが、そんなことを忘れさせて見せてくる1つ1つの動や身振り・手振りが素晴らしい。
νガンダムとサザビーの頂上決戦の美しさはトップクラスであり、改めて素晴らしい戦闘シーンを見せてもらった限りである。
だが、それでもやはり2人は「昭和の終焉」ということもあって戦いに殉じる形でしか人生を全うすることができなかった。
だが、『∀ガンダム』を前にして富野監督自身が既に「ガンダムシリーズの死」を画面の運動として本作を通じて描いたことは事実である。
1988という昭和最後の年に生まれたのも時代の必然であろうか、ガンダムシリーズが正式に90年代に入るにはここから『機動武闘伝Gガンダム』まで待たなければならない。
本作はその意味で間違いなく「時代の終焉」でありながら、同時に後世に更なる開拓の余地を残した名作として語り継がれるであろう。
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