日本語は正しく使おう!「無礼講」「水に流す」「お客様は神様」は決して誤用してはならない言葉
『酒癖50』は是非とも現代の若い人たちだけではなく、もう高齢になった人たちにも見て欲しいドラマだ、下手なお酒のマナーや自己啓発本よりもよっぽど説得力がある。
主演がかつてお酒と女でやらかして失敗してしまった小出恵介だが、個人的にはあの失敗があったからこそここまで骨太な役者になって戻ってこれたのではないかと思う。
少なくとも失敗・挫折を知らなかった若い頃よりも大人として、役者としての円熟味が増して演技力もより生々しく厚みがあるものになっていた。
その中でも特に見所あるのが第3話、上司への「無礼講」だが、ドラマの上だから必要以上に誇張されているだけで、現実にもこういう飲み会のマナー違反はしょっちゅうある。
「無礼講」がテーマのこの回だったが、どうも犬飼貴丈演じる若手社員が最後には悪者になってしまうというとんでもない落ちだったようだが、それだけではない。
元々般若演じる上司も事情があったとはいえ裏でキックバック(見返りの報酬のことだが、ほとんどは賄賂みたいなもの)を受け取っていたのも大きな問題だ。
上司からすれば、まさか自分が秘匿していたことが巡り巡って他者に暴露されるなんて思ってもみなかったのではないか?
故・ジャニー喜多川氏の性被害問題しかり、今年に入ってから地の時代の闇がどんどん暴かれているのを見るにつけ、今年は時代の変化が特に顕在化している年である。
話を戻すと、この若者は「無礼講」という言葉を曲解して「上司に対して悪口や誹謗中傷を言ってもいい」と勘違いしてしまったのが妙に持ち上げられ、エスカレートしてしまった事例である。
しかも他の同僚や部下たちから正義の味方のように持ち上げられてしまうのだから民意というものの恐ろしさもよく描かれていて、本当に人間とは残酷な生き物だと思わされるだろう。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのが飲みニケーションの恐ろしいところであり、飲み会というのは本当に「誰と飲むか?」「どんな飲み会か?」が大事なのだなあと。
確かにお酒というのは有効活用すれば普段距離ができてしまう上司と部下、先生と生徒の距離を縮める円滑な手段になるが、一歩間違えれば人生を破滅させる凶器となる。
私ももう40近くになるが、この歳になると自分よりもひと回り歳下の人たちと飲む機会も増えてくるが、数ヶ月前のある飲み会で一回だけとんでもない無作法を働いた奴がいた。
幹事が「無礼講で行こう」といったのをいいことに私に対して「よ!おっさん!」だの「ホッピー飲むなんてもうすっかりオヤジっすね」だのとうざ絡みしてきたのである。
最初のうちは「まあいいだろう」と思っていたのだが、酔いが回り始めると更にエスカレートして俺に酒を頭からぶっかけてきて「あはは!面白いっすねー!無礼講最高!」と言い出した。
仏の顔も三度まで、私は思わずカチンと来てしまい胸倉を掴んで頭突きをかまし、近くにあった自分のビールをそいつに顔面から浴びせ、更に乗っていた魚料理をそいつの顔面に押し付ける。
咄嗟の出来事で周りが驚愕し始めるも無視して「おいコラァッ!無礼講の意味を履き違えてんじゃねえぞこのガキ!」とそこから怒涛の折檻をお見舞いしてやった。
そいつは震え上がって私に謝罪した後恐る恐る距離を置いて対応するようになったが、今の若い人たちは本当に「無礼講」の意味を履き違えているんじゃないか?
そもそも「無礼講」という言葉を使っていいのはあくまでも上司や幹事などの上の立場にある人であって、決して目下の者が安易に使ってはならない言葉である。
仕事上だと遠慮してしまう上司と部下がお酒で距離を縮めて人間関係を円滑にするために行うのが無礼講であり、非常識で身勝手な行為をしていいという意味ではない。
日本語の中にはこのように誤用してはならない言葉があり、例えば「水に流す」「お客様は神様」といった言葉も適切に使わなければ人間関係を壊してしまう言葉だ。
何か相手が悪いことをしたのを綺麗さっぱり忘れる時に「水に流す」という言葉を用いるが、それを使っていいのはあくまでも「悪いことをされた側」である。
相手が謝罪や反省の気持ちがあってきちんと謝罪した時に「いいよ、もう水に流そう」と使うのが正しい例であって、それを悪いことをした側が「水に流そうぜ」と言ってはならない。
また、「水に流そう」という言葉に騙されて相手に再び失礼なことを働いてもいいわけじゃない、経緯がどうあれ相手の心は一度深く傷ついているのだから。
それから最近飯テロなどでも問題になっているが「お客様は神様」という言葉も同じで、この言葉はあくまでもサービスする側の心構えである。
この言葉自体が三波春夫氏が「舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない」という心構えとして説いたものだ。
その背景にあるのは他者への思いやりや尊重の心が薄れた背景があったからこそ、戒めとしてこの言葉を作ったのであって、決して身勝手な行為の免罪符として言ったものではない。
サービスする側にも心構えがあるのと同じように、サービスを受けるお客様の方にもそれ相応の礼儀作法は必要であり、そこを忘れて何を主張してもいいわけではないのだ。
先日、ヒカル・カジサック・勝俣・相馬の4人で飲み会を行った時に、今の人たちには「共感力がなく、間を大事にしない」という話が出ていた。
つまり幼少期からの家庭教育がきちんとなされておらず、何でもデジタルなものに流されきちんと人と人が向き合い対話をする時間が減ったのだと。
そんな生活が当たり前の環境で育つようになった結果、人々の絆や繋がりといったものも昔ほどの強さや温かさが感じられなくなってしまったのではないだろうか。
そしてそのせいで、いきおい上記したような日本語の意味もきちんとわからず目上の人に対して敬意を払い丁重に扱う文化も失われてしまったのだという。
こんなことを書くと反対されるのであろうが、「懐古厨」だの「老害」だのと特に今の若い人達はすぐに年上の人たちに対してレッテルを貼りたがる。
気持ちはわからなくもないが、「年の功」という言葉があるように年上の人たちには若い人たちにはない人生の経験に基づく知識・知恵がたくさん詰まっているのだ。
そんな年上の人たちの話をじっと聞き耳を立てて聞いて咀嚼・吸収することも1つの学びであるし、むしろ座学よりも飲み屋談義の方が人生のエッセンスが詰まっているかもしれない。
しかし、今の若い人達はとにかく飲みニケーションというものを忌避するものだから、年上の人たちからそういう知恵を教わる機会もまた消失したのである。
確かに年上年下の概念が昨今取り払われつつあるようだが、それは同時に失礼や非常識を働いても構わないとするならず者を生み出すリスクにも繋がるのではないか?
そのことがこのドラマの「無礼講」を勘違いしてしまうモンスターを生み出してしまったのではないかという気もする。
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