まっすぐなひかりのもとに/井上法子『すべてのひかりのために』評

井上法子『すべてのひかりのために』を読んだ。井上の歌は語彙レベルのうつしさで語られることが多い印象があるが、井上のうつくしさの本質は「つよさ」に由来しているような気がした。

陽に透かす血のすじ どんな孤独にもぼくのことばで迎え撃つだけ

孤高(P.14)

思惟よおやすみなさい。夜明けにひとときの昏い睡りをおまえにやろう

この明るさを いったい(P.26)

みな雲母きららとわにみなしごかみさまの計らいだって気がつかぬだけ

この明るさを いったい(P. 28)

歌集冒頭より、強い言い回しの見られる歌を引用した。一首目「どんな」「だけ」、二首目「やろう」、三首目「みな」「だけ」が強固な言い回しにあたる。強固な言い回しは井上の固い意志のようなものを表していると思う。どんな孤独に対しても言葉で対抗する、思惟には夜明けひとときの睡りを与える、気がつかぬだけで、皆が雲母でみなしごである、といったように井上の中を渦巻くルールや解釈が強い言い回しにより表明されている。

またここに来られたという顔をして泉へ夜の森へ かえりな

この明るさを いったい(P.29)

水際はもうこわくない 踏み込んで、おいで すべてのひかりのために

すべてのひかりのために(P.41)

こんなにも煌めきたちはおそれしらず。そのひかりごと抱かれにおいで

まだ夢のなか ずっと(P.48)

呼びかけを用いた歌も数多く見られ、ここには何かを受容できる余裕が見られる。帰る場所があることを認めた上で、「ここ」に来たことを歓迎し、まっすぐ帰してあげること、水際を恐れているもののために踏み込むことを促し、「おいで」と呼びかけること、「おそれしらず」な煌めきたちに「おいで」と呼びかけること。これらはどれも強さに付随する余裕だと思う。自身の強さを誇示するわけではなく、周囲を積極的に迎え入れようとすることのできる強さと余裕は、懐かしい記憶のようにあたたかく、やわらかな印象がある。

青葉闇 暗喩のためにふりかえりもう泣きながら咲かなくていい

素直に届けられる夜(P.60)

かなしみに矛盾はないさ つらいのはぼくが花冷えを呼んだせいだね

ひまわりとおねむり(P.66)

愛してる窓たち。たとえ悪夢でも透きとおるほど磨いてあげる

ひまわりとおねむり(P.68)

井上は一般にネガティブな印象を持たれているようなものでさえ、受容しようとする。闇を、かなしみを、つらさを、悪夢を、その対極にあるとされているポジティブなものと同様に受けとめ、諭し、磨こうとする。

健やかに忘れられたい/わけへだてなく花時はすぎてゆく/だけ

花賊(P.75)

暁に群れをなす鳩(ああなんて詩はことごとくやさしくて無為)

ほのあかるいな(P.115)

撫でられたあとかもしれずさざなみのきらめく模様すべからく、みな

ノスタルジア(P.119)

ひかりはすべてのものを照らし出す。時間や言葉、水を撫でる手と同じように、そこに恣意性はない。井上の短歌はすべてのものを、その善悪、美醜、利害に関係なく照らし出すひかりそのものではないか。自分の信念のもとまっすぐに進み続ける強固さを、すべてを包みこむあかるさとやさしさを、この上なく透き通ったうつくしさを、三十一音のなかで表現してみせる。

もう一度きり瞬いて花びらを、せめて香りを抱きとめて ゆけ

孤高(P.13)

「もう一度きり瞬いて」というのは、もうほとんど瞬かなくなったものに対して言う言葉だと思う。そして、瞬かなくなったものに対し、花びらを抱きとめることを、花びらという実体を持つものを抱きとめることができないのであれば、香りという実体を持たないものを抱きとめればよい、と声をかけ、最後にはここではないどこかへ向かうことを促す。わたしはこれを激励の歌であると思っている。井上が短歌において書いてみせるまっすぐなひかりに一瞬照らされることで、そのやさしさに、あたたかさに、心を直接励まされているような気がしてならないのである。

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