失敗を責めて、才能は隠させる…とマウント合戦になる?!
最近、ある対談で、「マウンティングゴリラ」(笑) みたいな面白い表現がでて、、私のなかで「マウント」という言葉に敏感になってます。
マウントって何?
自分の方が上だぞ!っていう言動をマウントを取るっていうことが多いですが、実は心理的にはそのほかにもいろいろと要因はあると思っています。
詳しくは、外部記事ですがおまかせして…。
私、相当マウント取りに行く人だったと思います。今もまだ癖みたいな名残があって、無くなるにはもう少しかかりそうですが…なんとなく、あれ?と思う出口に来たので、気づいたことを書き留めておこうと思います。
マウントをとって、自分の価値を表現する。という行為を、やめたいと思うのに、やめられない、意味がない、むしろ害だとおもっているのにやめられない自分がいました。そして結局そんな自分に自己嫌悪に陥る。そんな繰り返しを人間関係の中でしてました( ;∀;)
どうしてマウントがやめられなかったか。
結局、マウントを取ってた自分っていうのは、根底に、ものすごい悔しさを抱えていたってことがはっきりしました。
平等(というか一律?!)であることが美学の日本の教育化で、発達も能力も凸凹の激しい私は、できないところは「人間失格」のように評価され続け、逆にできるところは目立つので叩かれる、を繰り返して、完全に人間恐怖に陥ってました。
それは子ども時代だけでなく母親になってからも続き、頑張っても頑張っても「普通の人」としてさえ評価されない。。
さらに、共感ベース感情ベースの何気ない女性との会話が難しく、探求心が強く理論と解決がある会話を好む自分は、コミュニケーションも取りづらい=人付き合いが全くできない自分勝手な人間。という烙印を自分に押していきます。
じゃあ、今はっていうと、、時代が変わり、自分の思うことを表現できるようになった。ジェンダーフリーな考え方が表に出てきた。周囲に自分軸の人が増えた。様々なことで、私という人間が、ある意味凸凹どちらも目立たなくなってきたんです。
仲間に入れてほしい、普通に扱ってもらいたかった。
くやしさ悲しさの根底はここだけでした。
だから、今、環境が変わり、失敗しても「あるある~!わたしもぼくも~」って言ってくれる、思ったことを表現しても「そんな考えもあるんだ」とか、「いいじゃん」って言ってもらえる環境になり、、
鬱積していたものが、スムーズにやわらかく流れるようになってきたのを感じます。
そうなると、自分の中の「情けない」と信じて認められなかった数々が顔を出すようになります。出しても安全だからです。
そうこうしているうちに、逆に、自分が当たり前だと思っていたことが、自分の特技だったのかもしれない、と知るようになります。
もうここまでくれば、生きていることが安心になってくる。
ポンコツじゃないわけなので。
凄い人になりたかったわけじゃない、私も仲間にいれてほしかった。醜いアヒルは嫌だった。ってだけだったんだと。
子どもたちの環境はまだ変わってない。
マウントを取ってしまう表現は、人間関係を崩し、双方を苦しくさせます。だけど、したくてしているわけじゃない。
マウントを取る人から自分を守ろう的な話がよくありますが、、そもそも、なぜその人がマウントを取らなければならないのか?
いろんなマウントを取る人を見てきましたが(自分が取るタイプなのでよく見つける(笑))、その中には、人種差別の中で生きてきた、または、いまだに部落差別の中で生きてきた人もたくさんいます。
そんな人たちは、その人が悪いんだろうか?
そして、時代が変わったと言ったけれど、実はまだ、変わったのはほんの一部。イノベーターやアーリーアダプターの部分にいる人たちの周囲がかわっただけ。学校での環境はさほど変わっていません。いじめがある以上、かわってないんです。
いじめのもとは大概、「これが偉い」「これは最悪」があるからだから。だいたいはそこを統括している大人の価値観がいじめをつくっているとさえ思います。
そこには、認めてもらえない悔しさからの「嫉妬」という感情も沸き起こり、みんな、自分の価値を見失わないように必死になっているだけ。
親としてできること
そんな環境で、親としてできることは、子どもをいっぱい抱きしめてあげることや笑顔を向けてあげること、一緒に楽しくご飯を食べること(オキシトシンやそのほかの幸せホルモンが増えて感情がネガティブへ下がるのを防ぎます)。
そして、失敗を責めず、人間に失敗はあって当然のように受け止める、そして子どもが安心して表現できる場を提供してあげることなのかな、と思います。
安心安全な場、最近これも私のテーマになりつつあります♪
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