アイドルの処女性のはなし
先日乃木坂46の星野みなみの恋愛報道が取り沙汰された。
私のアイデンティティは、物理が好きであり、コンサルタントであり、うつ病であり、小説家志望であり、そして星野みなみを愛していることだ。
報道当初は「幸せになってくれたらいいけど、これで変な卒業したら寝込むなあ」と思っていた。恋人がいること自体へのショックというよりも、もうメディアを介して星野みなみを観ることができなくなることへの恐れだった。
もちろんインスタグラムでも「#星野みなみ」「#かわいいの天才」をフォローしており、保存はほぼ星野みなみだ。
そのためいつも素晴らしいものを提供してくださる数々の星野みなみ推しのアカウントの方は阿鼻叫喚だった。
そういうものに触れているうちに、自分でも
「あ、星野みなみが恋愛していること自体も嫌だわ」
と思っている自分もいることに気がついた。
と、同時に
「なんで嫌なんだろうか?」
ということも頭をよぎった。
これまでも何度も週刊誌にすっぱ抜かれてワイドショーで報道されてきたのを見たことがあるが、これまでは大して気にしたことはなかった。
しかし、自分の世代だと48グループは「恋愛禁止」を公言しており「恋愛禁止」はアイドルの暗黙の前提という風潮自体がある。
今まで素通りしてきたものに対して自分の感情が動いた今はそこに何があるのかを考えるようになった。
まず思い当たったのは「宗教」だった。
特にキリスト教は聖母マリアの処女懐胎のようにその「無垢さ」「穢れのなさ」が重要視されている。イエス自身にも子孫はいないと言われている。
「喜びなさい、幸福な人よ。主があなたと共におられる。」というガブリエルがマリアに言葉をかける様子を描いた「受胎告知」でも雄しべの無い百合の花が強調されており、その処女性を強く伝えている。
その重要性は例えば実はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「受胎告知」では雄しべが描かれており、通常塀に囲まれた庭に通路が描かれて姦通していることが暗に示されていることが注目されることがあったり、
「ダ・ヴィンチ・コード」でもイエスは実はマグダラのマリアとの間に子をもうけていたということが世界を揺るがす事実である設定として描かれていたりと、「それが崩れることがいかに重大なことであるか」でよく言及されている。
イエスが「人の子」ではなく「神の子」であることの重要性と、「神」と「人」は交わってはならないという前提がそこにはあり、それはアイドルに求められる処女性とも関係があるように感じた。
キリスト教が比較的身近でない日本ではこの精神は関係ないかとも思ったが、そもそも日本もムラ文化で「ウチ」と「ソト」の境界線への意識が強く、「今感じている神聖さ、現状」を穢されることをとても嫌う気質であるところは根源的には同じだと思い至った。
アイドルという存在にも神聖さ見出し、それを拠り所にしているのではないだろうか。
だからそれを穢されることを半ば本能的に畏れ、嫌うのではないかと思う。
そしてその神聖さをなぜ穢されたくないのかについても考えてみると、飛行機に乗った時のことを思い出した。
「スマートフォンやPC、タブレットなど電波を発するものは機内モードにしてください」というアナウンスがある。
なぜ飛行機の中で電子機器の通信をオフにしなければならないのか気になって調べてみた。
「航空機で通信に使っている電波の周波数と近いから混線が〜〜」「AM、FMが〜〜」のように元物理学徒としては大変語りたいところではあるが一旦置いておくと、
「何が起こるか分からないから」
という理由も大きいようだった。
99%くらいは大丈夫だけど残り1%が分からない。何かが起こってからでは遅い。
という「未知なるものへの不安」がある。
話を戻して、なぜアイドルの恋愛が取り沙汰されるのか。
人間の文化的な側面である「崇拝するものは神聖であるべきで、穢されてはならない」という思いと、「それをされるとどうなるか分からない」という根源的な畏れがあるのだと思う。
とまあ、話を小難しくしたが、みなみちゃん元気に戻ってきてくれると嬉しいなあ。と思い筆を置く。
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