【教養2.0】浅羽通明『ニセ学生マニュアル』&橘玲『読まなくていい本の読書案内』&中沢新一『チベットのモーツァルト』を精読する ♯93
今、教養が危機にある。
理由は自虐史観によってメンヘラが大量に増えているからだ。
また老害な論客たちによって市場競争にもはや論客のゲームは悪用されているからである。
その時に改めて読むべき本や論者たちを考える際の考え方として90年代を代表する浅羽通明さんと橘玲さんのこの二人の教養への向き合い方は非常に役に立つだろう。
まず浅羽通明さんは見えない大学本舗と宣言する。
見えない大学がこの世を覆っていると言っているが、簡単に言うと本当に知識人になろうと思ったら在野の知識人たれと説くのだ。
そして在野の知識人というのはアーティストであり編集者、エディターであることを高らかに彼は宣言する。
もっとも彼は言う。
在野の知識人たるためにはむしろ象牙の塔の大学の知識人たちを価値相対化のように膨大に知っておく必要があるのだと。
ここで大事なことは日本人の思想家/学者たちを浅羽通明はあくまでも細かく精査する必要性を説いていることだ。
こうすることで後は見えない大学は完成する。
今からBOOKOFFにも行こう。あるいは本屋にでも行って文学書や哲学書は海外の輸入でいこう。
言っておくがなぜメンヘラが悪化するか?と言えば自虐史観である。
千葉雅也先生はいい人だと思うけれど、あくまでもそれはジル・ドゥールズが偉いにすぎないのだし、成田悠輔先生が偉いのではなくてアメリカの統計学者が偉いだけだ。
ようするに英語力は非常に重要になってくる。これは西きょうじのポレポレでも読むか分析哲学でも勉強して細かい文献を読む力を鍛えて政治屋を卒業なさるべきだろう。
次に橘玲『読まなくていい本の読書案内』である。
橘玲は本は読まなくていいクソ本ばかりだと提唱する。
そんな彼も当時はポモに騙されたというか古臭いものに影響を受けたという。
だが、今ならミシェル・フーコーのパノプティコンは濱野智史の言うアーキテクチャ、SNSのことだし、ジル・ドゥールズのリゾームってそれってフラクタル構造のことでしょうで済む話である。
ようするに何を読むべきか?を初めから「理系」というフレームを切り刻むことでエピステーメー、エンタメ用としてポモを読むか、あるいは実践とし「理系」を最低限読むかを判断しろよと橘玲は提唱する。
彼は大学数学、認知科学、行動経済学、これら3つが大体この世界を作ってきたヘゲモニーだと提唱する(詳しくは本文を読んでもらいたいが、これら3つを勉強していないあるいは理解できない人間は♀と同義だと見なしてよろしいかもしれない)。
そして、浅羽通明&橘玲をまとめるとすると、宝島90的な知のエートスが重要となってゆき、オウム真理教に影響を与えた宗教学者/中沢新一『チベットのモーツァルト』をもう一度精読する必要性が出てくるのだ。
中沢新一のチベットのモーツァルトではポモのクリスティヴァが引用されていて、いかにポモが頑張ってもメンヘラは治らないことがこれまでかと書かれていて、逆に言えばその不可能性をここまで考え抜いたクリスティヴァのことを高学歴女性のことを美しいのだと高く評価する(ジル・ドゥールズ&ジャック・デリダは過小評価である)。
またラカンを仏教が超えている章があり、いかに実践的な身体論になってゆくかが分かり興味深い。
だから、確かにポモはゴミかもしれないし在野の知識人が偉いという話はあるかもしれないけども、高学歴女性とカウンセラーの需要は象牙の塔にも残ることが分かる。
いかに市場競争で近代的制度をハックしてゆくかという意味も中沢新一から学べることである。
そしてこれらの日本独特の知的ゲームを後継し模索しているのが半分自覚的である落合陽一氏とそれに興味がなさそうな古市典寿氏である。