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『アーレントとテクノロジーの問い──技術は私たちを幸福にするのか?』の「はじめに」(木村史人著)を公開します!
2025年1月、木村史人・渡名喜庸哲・戸谷洋志・橋爪大輝編『アーレントとテクノロジーの問い──技術は私たちを幸福にするのか?』を刊行します!
技術およびテクノロジーの問題は、20世紀哲学においても重要なテーマの一つでしたが、今世紀に入ってからはますます、情報通信や先端医療、軍事技術などのあらゆる分野で、技術による世界支配が不可逆的に拡大しています。
グローバルな世界で、誰もがスマートフォンを持ち、その「便利さ」や「効率性」に依存する惑星。人々の日常生活を深いところで管理・統治しつつも、そのことをあまり考えずに済ませてもいられる世界。そんななかで、いざ人間ひとりひとりがこの面倒な社会のことを考え、他者たちとともに共存していかねばならない事態に直面したとき、自由や幸福、倫理のかたちはどんなものでありうるのか。
結局のところ、技術のもたらす悪とは、そして善とは何なのか。
技術はひきつづき、人間中心主義と環境破壊を推進せずにはいないのか。
中堅・若手の研究者を中心とした共同研究にもとづく本書は、技術の問題の幅広い全域をカバーするものではないものの、少なくともその現代的な取り組みのとば口を、アーレント哲学を手がかりにはっきりと示しています。
刊行後、多くの読者を得た日本アーレント研究会『アーレント読本』(2020年刊)の発展的続編でもあり、論争的でスリリングな一書の登場です!
「情報通信技術や人工知能、生殖医療、そして核エネルギーなどの高度でブラックボックス的なテクノロジーが私たちの日常生活のみならず、政治環境まで変容させ管理するようになった現代。20世紀から今日まで、科学と技術の発展は私たちにどのような抑圧や悪を、あるいは解放や幸福をもたらしてきたか。アーレントの科学技術論を縦軸に、各個別分野の探究を横軸に、14人の執筆者が現代の問題に迫る。」
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-13044-1.html
はじめに
こんな問いを立ててみよう。ハンナ・アーレント(1906─75)は、『人間の条件』において、人間の行う活動性(activity)を、生きるために行う「労働(labor)」、物を作ることである 「制作/仕事 (work)」、異なる人びとの間でなされる「活動(action)」の三つに区分した。それでは、本書がテーマとする「テクノロジー」や「科学技術」は、これらの三種の活動性のうち、どれに該当するだろうか?
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一見したところ、「制作/仕事」がそうであるように思われるかもしれない。そのような回答は決して間違いとは言えないが、しかし本書で確かめるように、現代のテクノロジーがすでに「制作/仕事」には収まらない性格を持っていることを考えると、不十分な回答といわざるをえない。
今世紀は、ICT(情報通信技術)、ビッグデータ、AI(人工知能)、IoT、バイオテクノロジーなどの急速な発展・普及によって、政治・社会のあり方が大規模に変容していく時代であり、その変容をわれわれは日々体感している。気候変動、原子力発電所の過酷事故、新型コロナウイルスの蔓延などの事象を経験しているわれわれは、テクノロジーの進歩発展について、素朴に、正しい/良いことであるとは言えなくなっている。しかし、一昔前は楽観的であったかといえば、実はそうではなく、現在のテクノロジーの黎明期にすでに、さまざまな懸念が──いわば現在からみれば──「予言」的に表明されていた。本書が手がかりとするアーレントもまた、第二次世界大戦後のアメリカでテクノロジーについて深く思考したうえで、懸念を表明した一人といえる。
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本書は、2021年に採択された、科研費基盤研究⒞「テクノロジー時代の人間の条件──アーレント思想の応用可能性」(JP21K00042)での数年間の成果を基に、ハンナ・アーレントの思想を手がかりに、テクノロジーについて多角的に検討するという主旨で編まれた論文集である。テクノロジーをテーマにした類書との違いは、第一に、執筆者が皆、テクノロジーを実際に開発・運用する科学や技術の専門家ではなく、いわば人文学的・思想的な立場から研究する者たちだという点である。この点は、常識的に考えると、テクノロジーの開発や運用の最先端からは遠いという意味で、本書の「弱み」のように思われるが、しかしアーレントの考えでは、実はそうではない。彼女は、科学技術とは政治的な問題を孕むものであるため、むしろ科学者などの専門家以外の市民がこういった事柄について「思考」し、発言し、議論することの必要性を提唱していた。アーレントがどのような理路で、専門家ではない者が議論に参加することが必要であるとするのかについては、本書の論考(特に、コラム、第5章、第6章)を参照してほしいが、テクノロジーの専門家ではない者たちの「思考」によって編まれているという意味で、本書はアーレントの思想を忠実に継承するものであるといえる。
さらに第二に、思想的・哲学的に考察する際に、特にハンナ・アーレントの思想を手がかりとする点が、本書の特徴である。哲学的な技術論としては、「存在の歴史(Seinsgeschichte)」において存在が覆蔵され忘却されたことにより「総かり立て体制(Ge-stell)」が現代技術の本質となっているとするマルティン・ハイデガーや、いま技術を用いることによる将来世代への責任としての「未来倫理」を提起したハンス・ヨナス、「技術とは何か」を哲学的に論じたアンドリュー・フィーンバーグやピーター=ポール・フェルベークなどが第一に思い浮かぶだろう。実際に本書のいくつかの論考では、それらの思想家の議論も参照されているが、本書の論考は一貫して、アーレントの思想を導きの糸としている点に特徴がある。
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アーレントの思想を導きの糸とすることによる利点を先んじて述べておけば、彼女の思索の特徴のひとつである、「区別」することの意義を挙げることができる。この「はじめに」の最初に問いかけてみたように、アーレントは従来一緒くたにされてきた人びとの営みを、たとえば「労働」・「制作/仕事」・「活動」といった仕方で区分する。また、アーレントはわれわれが生きる領域を、家族が住まう「私(private)」と、政治的な場である「公(public)」とに分け、それぞれで行う活動性を区別する。アーレントによるこれらの「区別」に意義があるとすれば、それらが絶対に正しく、それに従えば物事をうまく整理できるから、というわけではない。そうではなく、これらの「区別」の枠をあえて設定し、そこから物事を見ることによって、そこに収まるもの/収まらないものが判然となる点にある。つまり、それらの「区別」のもとである事象を見つめることで、それまでには見えてこなかった性格をあぶりだすことができるのである。冒頭であげた「テクノロジー」や「科学技術」についての問いに、読者は、以上のような視座のもとに編まれた本書の13本の論考と1本のコラムで言及されるアーレントの思想を手がかりとすることで、自分なりの回答を見つけ出すことができるだろう。
本書の13本の論考と1本のコラムは、科研費の助成を受けて開催した研究会やシンポジウムで必ず一度は発表済みのものであり、内容には多かれ少なかれその際の議論が反映している。その意味で、本書の論考は、著者個人の「思考」から書かれたものであるとともに、「対話」によっても成立したものであるといえる。とはいえ、それぞれの論考の議論は独立しており、基本的に単独で読むことができるため、読者は章のタイトルを参考に、興味のある章から読み始めたり、難しく感じたり興味の薄い論考(例えば第4章の木村の論考)は読み飛ばして読むことができるだろう。
各部に収められた論考の詳細については、各部の「はしがき」で紹介しているので、そちらを参照してほしい。ここでは、本書全体の流れと、その中での各部の位置づけを確認しておこう。
第1部には、アーレントの科学技術についての議論を基礎に、ハイデガー、フィーンバーグ、三木清といった思想家の技術についての議論を参照しつつ、「テクノロジーとは何か」を問う論考が収められている。具体的な問題についても言及することはあるが、基本的にはテクノロジー・科学技術について思想的・哲学的に考察する「理論編」といえる。
第1部と第2部の間に置かれた、宮永三亜のコラム「アーレントと現代日本の原発問題」は、原子力発電所はただのテクノロジーの問題に尽きるのではなく、「政治的問題」であり、複数の「思考」する人びとによって意見が交わされるべきというアーレントの思想を紹介するという点で、第1部の「理論編」から第2部の「応用編」をつなぐ意味合いをもっている。
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第2部は、より具体的な問題、AI、シンギュラリティ、科学技術をめぐる議論への市民の参加、新型出生前診断や人工妊娠中絶、工業型農業とアグラリアン型農業といった多様な問題群を扱う「応用編」である。
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われわれが直面している具体的な問題を、アーレントの思想から眺めることで、あるいは具体的な問題を試金石としてアーレントの思想を眺めることで、その問題の内実やアーレントの思想の豊かな応用可能性が理解できるだろう。
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第3部は、2023年3月に立教大学で行われたシンポジウム「テクノロジーは私たちを幸福にするか? ──アーレントと『スマートな悪』」での議論を基にした論考が収められている。このシンポジウムは、編者の一人である戸谷洋志が刊行した『スマートな悪──技術と暴力について』(講談社、2022年)を手がかりに、現代において進歩し続けるテクノロジーが人間にとってどのように有益であるか、そしてそれがわれわれの存在のありようをいかに変化させるのか等をめぐるものであった。ゲストとして招聘した村田純一と堀内進之介の論考は、他の論考とは異なり、必ずしもアーレントの思想に依拠しているわけではないため、本書の考察をより豊かにするものといえる。
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アーレントを中心にテクノロジーについて論じる「理論編」(第1部)と、具体的で多様な問題について論じる「応用編」(第2部)を行きつ戻りつした上で、現代のテクノロジーがわれわれを幸福にするのかを批判的に考察する第3部の議論に進むことで、現代のわれわれが直面している状況を多角的に理解することができるだろう。本書が読者が自分で「思考」し、他者と「対話」することを通して、テクノロジーについて「判断」するきっかけのひとつとなってくれるのであれば、著者たちにとってそれ以上の喜びはない。
編者を代表して
木村 史人