トニー・ウォルター著『近代世界における死』(堀江宗正訳)、「訳者あとがき」を公開します!
《訳者あとがき》
最初の本という自負
本書序論の冒頭に「最初の本」というフレーズが出てくる。それを訳しながら、私は著者ウォルターの並々ならぬ自信と、この本の歴史的意義とを確信した。
「近代」という言葉を聞くと、多くの人は物質文明や都市文明、あるいはその中での人々のエネルギッシュな生活を思い浮かべるかもしれない。いずれも「死」とは縁遠いイメージだ。その近代が死という生物学的現象を形づくっているという視点、著者が専門とする「死の社会学」の視点に、読者は新鮮な驚きを覚えるのではないか。
死という現象は、時代によって、そして社会によって異なる形をとるものだ。死は個人にとって不可逆的な一回限りの現象であるが、人間にとっては普遍的な現象であり、類似のパターンを描くことがある。だが、そのパターンは時代や地域によって異なってくることもある。その意味では、可変的な現象とも言える。
では、画一的とも言える「近代」的生活様式が「世界」各地に広まったら、「死」のパターンも画一的になるのか。必ずしもそうはならないことを、本書『近代世界における死』は教えてくれる。本書の利点はそれだけではない。読者は、異なる近代社会における異なる死のありようを学ぶことで、自らの死と生のありようをより深く理解することが可能になるのである。
著者は本書をジグソーパズルの完成図になぞらえる。「近代とは何か」と問われたら、それを最も熱心に議論してきた社会学者でも一瞬答えに詰まるのではないか。それは、ひとことで言い表せない複雑な歴史的過程である。近代そのものが複雑であるなら、それと死との関わりもまた複雑になるはずである。近代性の諸要因と死との関係は、これまで断片的に論じられてきた。著者によれば、それはあたかもパズルのピースのようであった。その近代性の諸要因が、人間の死にどのような影響を与えてきたか。本書は、それを全体的に見渡した、いわばジグソーパズルを完成させた「最初の本」だと、著者は明言する。おそらく、著者ウォルターの死生学者としての人生の集大成──ジグソーパズルのひとまずの完成──とも言えるだろう。
「最初の」という言葉を目にすると、われわれ研究者はすぐに疑ってみたくなる。本当に最初の本なのかと。先行研究としてすぐ浮かぶのは、アラン・ケリヒアの『死にゆく過程の社会史A Social History of Dying』(未邦訳)である。
だが、これは近代について、それほど多くのページを割いていない。死生学の古典と言われるフィリップ・アリエスの著作群は、近代における「死の隠蔽」を指摘し、人間が死の主体でなくなり、客体となることを「倒立した死」と呼ぶ。
その元となる知見は、社会学者ジェフリー・ゴーラーの調査研究に由来する。ゴーラーは、死の場面から子どもを遠ざける傾向が戦後英国の社会にあることを指摘するとともに、メディア作品では死が過激に描かれていると指摘し、これを「死のポルノグラフィ」と呼んだ。
これらの学説は、死生学では半ば定説として語られてきたが、著者トニー・ウォルターは様々な角度からそれらを批判的に検討してきた。たとえば、死のタブーと表現に関する規範は各文化に固有のものがあり、それは前近代社会にもあった、などと指摘してきた。
近代性のなかの死
近代における死をめぐる論点は、死が隠蔽されているか、暴露されているかだけでは尽くされない。本書をひもとけば、読者はただちにそのことを了解するであろう。たとえば死のタブーとポルノグラフィという現象にも、高齢化、病院死の増加、死の医療化、メディアの発達、新しいメディアの死の表象への影響という、近代における複数の変化が入り込んでいる。こうした複数の変化に着目して、死と死にゆく過程と死別への影響を、変奏曲を重ねるように記述してゆくのが、本書の特徴である(そのおかげで、興味のある章をつまみ食いしても興味深い読書体験が得られる)。
近代化の複数の諸相が死のあり方に複雑な影響を及ぼしていることを、国際比較しながら総合的に理解するのが本書の狙いである。そこで、時期区分としての「近代」を自明視せず、地域によって時期が異なる近代化の総体を「近代性modernity」という用語によって把握するという戦略がとられる。では「近代性」とは何か。それは第一には、17世紀から20世紀前後の近代の西洋に現れた変化とその結果生まれた社会や文化の様々な特徴や状態の集合を指す。近代性は単一のものでなく複合的なものであり、変化し続けるものでもある。それは「西洋近代」というある地域の特定の時期区分を超えて、異なる地域に異なる時期に移植されてきた。これが近代性の第二の指示範囲である。つまり、「近代」が西洋社会におけるある特定の時期を指すのに対して、「近代性」は時代や地域を越えて生起する。
近代性は必ず同じような形をとるとは限らない。社会学では、「近代化」という一方向的な変化のプロセスが、国を超えて起きていると考えられてきた。たとえば産業化、構造的分化、商品化、合理化、世俗化、都市化、個人化などである。
しかし、どの社会もみな同じような近代化のプロセスをたどると仮定すると、今日の「近代化」したと見られる各国社会の多様性や、その内部での複雑性は見落とされることになる。日本社会では、近代化は何よりも「西洋化」としてとらえられ、それに対して複雑な反応がぶつけられてきた。「文明開化」として肯定的に取り入れようとする態度、「近代の超克」などというスローガンのもとで否定的に乗り越えようとする態度などである。他の非西洋諸国も、西洋から押し寄せる近代化の波に対して異なる仕方で応答している。自分たちの社会に合わせて取捨選択をおこない、取り入れたものに対してもローカル化を加えてきた。このような翻案が、近代性の各要素、あるいは近代化の諸側面に対して加えられる。宗教や文化や国民集団によって異なる「複数の近代性」がありうるということは、現代の社会学では共通了解になっていると言えるだろう。
こうした見方を、死に関する現象に当てはめたのが本書の特徴と言える。たとえば本書では、死の商品化(第三章)、死のメディア化(第四章)などが扱われている。これら「〜化」のプロセスは、グローバルに波及するものの、地域ごとの事情に応じて異なる形を取る。その際に、プロセスだけでなく、そこで反復されるモチーフを取り出し、反近代も脱近代も流動的近代性の一変奏としてとらえる。これが本書の基本的なスタイルである。
本書の概要
以下、本書の概要をごく手短に述べる。ただし、著者自身が序論のなかで概要を示しているので、本書で書かれている内容を忠実に要約するものではない。私のほうで事例を補足したり、著者の言葉づかいから離れた概括をしているところもある。
近代性における死と生を記述する上でまず重要になるのは、科学による「自然の制御=死の制御」(第一章)である。その制御の最も重要な手段は医療(第二章)である。著者は、科学による死の制御を、死にゆく過程の医療化、合理化、専門職化に分けて記述する。死は人生の途上での様々なリスクの帰結としてとらえられるようになる。たとえば癌のリスクを高めるものとして特定の食習慣や生活習慣があることが統計的に知られると、死はそれらの習慣の帰結として生じるのだという観念が広まる。その結果、死をもたらすリスクの管理(第六章、第七章)に人々の注意が向けられる。
死生学では「死の否認」(第五章)が批判され、脱医療化が目指されてきた。たとえば病院死が増えたことによる死の隠蔽やタブー視を批判し、住み慣れた場所で最後を迎えられるようにしようという在宅死運動がある。だが、それらの脱近代化、脱医療化とも見える動きは、個々人の自己決定を強調する(第八章)点で、個人化としても特徴づけられる。この個人化も近代性の一部である。それゆえ脱近代化というよりは近代性の徹底ととらえられる。在宅医療も医療である以上は近代的な制度と無関係ではない。施設ではなく地域共同体でのケアを強調する傾向も、結局はリスク管理の共同体への拡張としてとらえられる。つまり、死の近代化への抵抗もまた、近代性のパズルの一つのピースとして収まる。
読者のなかには社会学理論に詳しい人もいるだろう。著者ウォルターは英国の社会学者であり、同じく英国出身のアンソニー・ギデンズの近代性と再帰性についての理論や、ドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックのリスク社会論から大きな影響を受けている。
ウォルターはさらにS・N・アイゼンシュタットの「複数の近代性」、経済学や比較制度分析で見出された「経路依存性」をも強調する。とはいえ、多様性を強調するだけではない。家族(第九章)と宗教(第一〇章)と国民集団(第一一章、第一二章、第一三章)との緊張関係に注目して分析を試み、それらが各国で異なることを指摘する。その上で、想像された「近代性」のグローバルな流通(第一四章)を見る。最後に、死生学自体もこうした経路依存性に左右されていることを指摘し、その未来をオープンエンドなものとして展望する(第一五章)。
序論でも最終章でも言及されているが、この経路依存性は、各国の死生学の間に壁を作っている。たとえば米国で死生学の教科書が書かれると、米国の社会制度、福祉制度、死をめぐる法制度が自明視されがちである。同様のことは英国の死生学にもありうるだろう。そうした死をめぐる近代的な諸制度を、あたかも「近代」を代表するものであるかのようにとらえてしまう。このような傾向は日本の死生学にもあるかもしれない。
死の歴史を描いたフランスのアリエスは例外的に英語圏でもよく読まれているが、その他のフランス発の研究はあまり知られていないという。
近代性と死の関係性という着眼点は、こうした国の壁を越える手段として有効であろう。なぜなら、今日では多くの社会(非西洋を含む)が近代性を何らかのかたちで抱え込み、あるいは近代性と対峙することを迫られているからである。
日本の死生学にとっての意義
この点で、日本の死生学は恵まれていると言える。
フランス語圏からは、アリエスだけでなくヴラディミール・ジャンケレヴィッチやエドガール・モラン、またもっと広げればジャック・デリダなどによる死に関する思想も紹介されている。
逆に、英国からはシスリー・ソーンダーズとゴーラーは紹介されているが、死の社会学で重要な著作の日本語への翻訳が進んでいない。
たとえば、本書の著者であるウォルターの多くの著作が翻訳されていないし、前出のケリヒアだけでなく、ダグラス・デイヴィス、ジョン・トロイヤーなどもほとんど知られていない。比較的著名なジグムント・バウマンの死に関する著作も未邦訳である。
他方、米国からは死にゆく過程の五段階説を唱えたキューブラー=ロスをはじめ、死の否認を扱ったアーネスト・ベッカー、医療社会学のバーニー・G・グレイザーとアンセルム・L・ストラウス、死の心理学のロバート・カステンバウム、その他グリーフケア関連の文献が多く紹介されている。
実は死に関する議論は何よりもドイツ語圏から早く出ている。自殺に関してはアルトゥル・ショーペンハウアー、死の欲動や服喪に関してはジグムント・フロイト、死への態度に関してはマルティン・ハイデッガーが論じている。スピリチュアル・ケアの分野でよく参照されるのが、強制収容所のなかでの生と死を描いたヴィクトール・フランクルである。これらの著者はあまりにも有名であり、日本の死生学のみならず、日本人の死生観に直接間接の影響を与えていると言えるだろう。
日本ではアルフォンス・デーケンやカール・ベッカーなどの外国人の日本語での発信に加えて、臨床系の死生学の文献が多かったが、二一世紀に入ってからは島薗進などの人文系の死生学が目立ってくる。葬送研究は層が厚く、多数の研究書が刊行されている。自殺率が高いこともあり、自殺についての研究も他国より盛んだと言えるだろう。
こう見てくると、日本語で読める死生学文献は豊富にあるのだが、ウォルターを含む英国の死生学、または死の社会学だけが穴となっていることが分かる。だが私の見るところ、現在の死生学、特に人文社会系の 「death studies」 の中心は、まぎれもなく英国にある。とりわけ、ウォルターの所属しているバース大学の死と社会センターには多くの優秀な研究者が集まっている。また、ダーラム大学の死生学センターは、今年に入って全六巻の『死の文化史 A Cultural History of Death』をデイヴィスの編集によって刊行した。
本書『近代世界における死』は、自分の国の死をめぐる慣行について自覚することをうながす。章末には更なる議論を喚起するための問いが列挙されている。これらの元になったのは、著者の講義やセミナーに英国外から参加した人々の情報である。彼らが自国の死の慣行について情報提供したことが、英国出身の学生にとって大きな学びになったという。
こうした議論の雰囲気を伝えてくれる本書の訳出によって、日本の死生学にも「国の壁」にとらわれない洞察が生まれることを願っている。訳者のもとにも、中国や韓国からの留学生が集まってくる。本書をゼミで読んだ際には、おのずから自国の状況と日本の状況との比較に議論が向かった。本書の国際比較の問題意識は新しいように感じるが、今日のようなグローバルな大学の環境においては、むしろ自然に生まれてくるものなのかもしれない。
本書の限界
最後に、本書を訳す過程で何度も読み返した訳者として、本書の限界についても指摘しておかなければならない。第一に、本書は新型コロナウイルス感染症がパンデミックとして世界を席巻する直前に書かれたということである。つまり本書は「コロナ禍」を知らない。著者から日本語訳に寄せて新たな序文が寄稿されているが、そこで書かれているように、本書では、コロナ禍どころか感染症一般についても多くのページが割かれていない。
そのことを、私は国際学会において「感染症による死の否認」だと指摘した(Norichika Horie, ‘Necropolitics, Ageism and Naturalization of the Pandemic’, CDAS (Centre for Death and Society) Conference, University of Bath, online, 3 May 2023)。実のところ、パンデミックが起こる前から、先進国の高齢者が感染症で亡くなることは珍しくなかった。ただ、亡くなる前に感染症以外の病気で弱るため、そちらのほうが主たる死因として注目されやすいのである。人生最終段階において死をもたらす感染症を、私は「死神の最後の一撃」と表現した。しかし、このことは社会一般で大きく取り上げられない。たとえば、高齢者がインフルエンザで死ぬのは仕方ないなどと受け止められるのである。「死神」が現実にそこに存在するのに、あたかも存在しないかのように社会が振る舞っている。このことは精神分析でいうところの「否認」──不快な、または不都合な現実について、それが存在する証拠は認識しているはずなのに、あたかも存在していないかのように振る舞うこと──に当たるだろう。
2024年現在、新型コロナウイルス感染症は収まったように見えるが、実際には数多くの高齢者がこの病気で亡くなっている。社会はそのことを自然なこととして容認しただけである。これを私は「パンデミックの自然化」と呼んだ。つまり、コロナ禍前からあった「感染症による死の否認」という防衛機制が発動したのである。先進国におけるこうした感染症の問題についての議論が抜けているのは、確かに本書の大きな限界である。
にもかかわらず、本書の方法論は、今後の感染症の死生学にとって有効である。とりわけ、「リスクと不平等のランドスケープ」という観点から近代性のバリエーションを見てゆくという第二部の方法論は有効である。パンデミックとは、あるウイルスがグローバルに蔓延することを意味するので、それに対する科学的な対策が本来はバラバラになるはずがない。しかし、実際には各国の対策は、その国の政治経済的状況に左右されてきた。その中で、高齢者や基礎疾患を持つ人や人口密集地域に住む困窮者の死というリスクは、経済活動の停滞というリスクと天秤にかけられた。政治家の個人的気質にも左右されつつ、各国で異なる対応が取られた。こうした対策についての研究は今後大いに進むと期待するが、本書のような国際比較の視点は不可欠となるであろう(私の研究としてはNorichika Horie, ‘Beyond the Individualisation of Risk: Lessons from the Japanese Response to COVID-19’, in Mallon, S. and Towers, L. (eds.) Death, Dying and Bereavement: New Sociological Perspectives, London: Routledge, 2024)。
また著者も述べているが、一見すると死をめぐる状況はパンデミック前の世界に戻りつつあるように見える。それゆえ、本書がパンデミック前に示した見解や知見は、基本的にはパンデミック後の世界にも引き続き適用することができる。
第二の限界としては、著者も断っているように、「近代世界」といっても限られた地域が重点的に扱われていることである。これは著者が実際に行き来し、現地の研究者と交流がある場所が、戦略的に重視されているためだ。とはいえ、イスラームがほとんど扱われていないのは、方法論的限定では説明がつかない(テヘランでの調査は引かれているがイスラームには言及していない)。英国には多くのムスリム系移民がいる。にもかかわらず、著者が英国の移民として注目するのは、ほとんどがヒンドゥー系の移民で、そこに若干のアフリカ出身の移民(ムスリムかどうかは不明)が混ざるくらいである。他方、死生学関係の学術雑誌を見ていると、イスラーム圏での調査研究にもとづいた論文は数多く出されている。もし、本書の後を引き継ぐ本を出版するとしたら、イスラームについての言及は欠かせないだろう。
関連して第三の限界として指摘できるのは、著者が英国以外の地域で綿密な調査をおこなっていないということである。英語で出版された各国の状況についての研究に多くを負っているため、事実認識の精度は高くない。訳者は日本の専門家であるため、日本に関する事実誤認については、訳注で訂正や補足説明を加えた。しかし、日本以外の地域については精通していないので、そのままとなっている。おそらく日本についてと同程度に事実誤認が含まれている可能性はある。
以上のような限界を認識しつつも、私はなお、本書が示した近代性と死をめぐるパースペクティヴには大いに学ぶところがあると考える。むしろ、これまで述べてきた限界を突破する課題を担うのは、各国の死生学者であろう。
翻訳の時間の共有
最後に、訳者の私的な感慨を述べさせてほしい。本書の訳出には、三年半から四年はかかると想定していた。ほぼその通りで、四年あまりの歳月が費やされた。私が訳出の作業に取りかかったのは2020年の4月であった。それは感染症拡大により、ステイホームが推奨された時期だった。家にこもりきりとなった私は、気分転換に自家用車のなかで本書を毎日400字ずつ訳すことを日課とするようになった。振り返ると、河原の木陰に駐車して翻訳したり、コンビニで食料と飲料を調達して駐車場で翻訳をしたりした時間が思い起こされる。とくに深夜のコンビニの駐車場には、カフェやファミレスを避けて車内で思い思いの時間を過ごす人が多く見られた。コロナ禍初期の異様な社会の雰囲気の中で、コロナ禍を知らない本書を果たして訳す意義があるのかと疑問に思うこともあった。しかし、時間が経過し、社会がコロナ禍を意図的に忘れようとする過程で、そうした社会の変化に左右されない本書の価値について、少しずつ確信を深めていった。
翻訳の際に生じた疑問をめぐって、著者とは数え切れないほどのメールを交わした。著者はコロナ禍によって、本書の価値が一気に下がったように感じ、かなり落ち込んでいるようだった。また、英国の感染状況は日本よりも深刻であったため、著者自身も十分な医療が受けられずに苦しんでいた。もしかしたら、遠く離れた日本で本書を長い歳月をかけながら訳している人間がいることが、著者にとって幾ばくかの慰めとなったかもしれない。
訳出過程での疑問は、まったく出ない時期もあれば次々に出る時期もあった。著者に質問をするタイミングが、あまり開きすぎないように、またしつこくなりすぎないように、複数の質問が溜まったらメールするように心がけた。それが著者に私が翻訳を進めていることを気づかせ、私が著者を気にかけているというサインを送ることになると期待した。そのように想像を膨らませながら、訳出とメールを通じて著者と対話できたパンデミック期間は、私にとって希有な時間となった。
読者の多くにとっても2020年からの数年間は特異な時間──人によっては喪失と悲嘆を伴う時間──であっただろう。本書の訳業の背景にコロナ禍という時代があったということ、本書がそれを乗り越えて人間の死と生のあり方を問いかけていることを、日本の読者に感じ取っていただければ幸いである。
著者と本書が与えてくれる恩恵に感謝してばかりではいられない。近代性と死の関係をグローバルに考察した「最初の本」を「最後の本」にしないよう、死生学者は著者の問題意識を引き継ぎ、仕事を紡いでゆかなければならない。この訳書を手に取った学生や読書人にも、こうした問題意識の新鮮さや面白さ、そして切実さを感じ取ってもらえれば、訳者冥利に尽きる。
2024年8月
堀江宗正