『詩の畝』のこと (髙山花子)
こんにちは。このたび刊行される『詩の畝──フィリップ・ベックを読みながら』は、ジャック・ランシエール(1940- )の読者にとっても、そうではないひとにとっても、一見すると「?」が生まれる本だと思います。
「詩の畝ってなに?」とか「フィリップ・ベックって誰?」とか、「ランシエールってあのランシエール? そんな本を書いていた?」とか、あまりタイトルから浮かぶものは、日本語読者にはないのではないか。なので、ここでは、訳者として、すこし補足説明をします。
原題は、Le sillon du poèmeです。sillonというのは、畑の畝を指すフランス語の名詞です。盛り上がっているほうには、間隔を空けて種や苗を植える。凹んでいるほうの溝は、通り道になっている、あの畝です。poèmeは、そのままで、いわゆるポエムです。詩です。そしてここでは、一つひとつの個別作品としての詩、それも、改行をともなう詩行で成り立つ詩のことを言っています。
哲学教員であり詩人でもあるフィリップ・ベック(1963- )は、ステファヌ・マラルメを相当に意識して、韻文や詩句を意味するフランス語versがもともとはラテン語で「向きを変える=改行をする=転回する」を意味するvertereに由来しており、なおかつ、それが「畑を耕す」という意味にも通じていることを汲み取って、詩についての詩を、たとえばこんなふうに創作しています(本書には明白には出てきませんが、マラルメを強く想起させる詩なので、以下を解説でも紹介しました)。
はっきりしているのは、ベックが過去の詩人等の作品に倣って、書き直しを行なっているということ。それは詩についての詩であり、詩による思考にもなっているということ。そのとき詩の改行ないし詩行の水平線が、鋤のような農具を身体にくくりつけられて、その農具を引いて、牛たちが畑を耕し掘り下げる、畝の水平線と等しく考えられているということです。
だから、犂耕体や牛耕体と訳されるboustrophedonをもじって、ベックはboustropheという新語を造り、詩節(strophe)もまた、牛(βοῦς/bœuf)が歩いて進んでゆく道筋と改行の動きに重ねて詩を書いてゆく。
いちばん最初のテクストに書いてありますが、ランシエールは、ベックがこのように書き直す行為そのものを、詩の畝をいっそう掘り下げること、さらに穿ってゆくことなのだと見てとっています。
本文を読み進めてゆくと、グリム童話の書き直しの具体例をランシエールが分析する道筋はわかりやすく、その後のベック本人を含めた議論の様子は生き生きとしています。そしてランシエールとベックの往復書簡からは、ラブレーやラ・フォンテーヌをめぐる読解が詳しくわかります。
ランシエールも参加した2013年夏のスリジー・ラ・サルでのコロックの抜粋
ランシエールによる詩人モノグラフィとしては、『マラルメ』に次ぐ二冊目で、詩全般については、『言葉の肉』の原書第一部「詩の政治」とつうじる要素も散見されます(ランシエール氏からも、今回の本は、ジャンルとしての詩=ポエジーについては、とりわけ『言葉の肉』で問うたものを多く追求しているとお返事がありました。とはいえ、いつもの著作とは異なる成立過程であり、ベックとの出会いと要請から生まれたとのことです)。
『不和』の政治概念や、『無知な教師』の教育論の印象が強い場合、ランシエールと詩と聞くと「?」が浮かぶかもしれませんが、ほかでもない、1975年から彼が牽引していた雑誌『レヴォルト・ロジック』のタイトルそのものは、ランボーの詩集『イリュミナシオン』所収の「民主主義」に由来しています。このあたりのことは、すこしだけ解説で書きました。彼の力強い思想の根源に詩があることを新たに確認するためにも、短い本書は、気軽に入りやすいテクストなのではないでしょうか。
雑誌『レヴォルト・ロジック』のアーカイヴ
Les Révoltes Logiques (1975-1981)
https://archivesautonomies.org/spip.php?article86
ちなみに英訳はThe Groove of the Poemです。畝を意味するフランスのsillonは、英語だとgrooveになるのですが、そのときgrooveは音楽のグルーヴを示唆するので、レコードの音溝を針がたどって、過去の音楽や歌が再生されるイメージが強く喚起されます。しかも、このベック論は、副題に込められているように、詩を書くこと、書き直すことだけでなく、読むこともまた、この畝を辿り直すことだと言っていて、それが静かに刺激的です。わたしたちはいったいどのように詩を読むことができるのか? 読むとはいかなる事態なのか?
ランシエールはもちろん、現代詩人ベック、言葉の音楽性、引用とは異なる書き直しについて、わずかでもなんらかのご関心のある方には、ぜひお手に取って読んでいただきたいです。たとえば日本語文学において、あるいは音楽創作において、詩歌や、韻文、散文、オマージュがどのように可能なのか、歌を歌い直すとはいかなることなのか、出来事を記録したり残すにはどのような形がありうるのか、たくさんアイディアをもらえると思います。
(おまけ)
レコードの音溝に関連して1曲、Daisy The Great × AJR « Record Player » (2021)をご紹介します。アメリカのインディー・ポップ・デュオ、Daisy The Great のデビュー曲 « The Record Player Song »(2017)のリミックス。
AJRとのコラボでリメイクされてヒットしたこの曲は、原曲と聞き比べるといくつもの変化がおもしろいです。過去曲の書き直しや再生イメージが浮かんでくることはもちろん、リリックもきっと詩の畝にみえてくると思います。
どちらもアルバム『All You Need Is Time(Deluxe Edition)』(2022)収録。1曲目の « Time Machine»から、すべて「時」がテーマになっています。
Daisy The Great × AJR - Record Player
ジャック・ランシエール 著
髙山花子 訳
『詩の畝──フィリップ・ベックを読みながら』
叢書ウニベルシタス1175/四六判上製/198頁/定価(本体2,700円+税)
978-4-588-01175-7
2024年7月25日刊行