質問すること・議論すること について

私は行動経済学者である小幡積氏が東洋経済に連載されている記事をよく読みます。
今回は、記者による質問の日本と欧米の違いについて、とても深い洞察が記載された記事です。
欧米と日本との議論の仕方について、とても興味深い記述がありました。

抜粋:
「日本の建前には心も気合もこもっていない。だから、すぐにオフレコと称して本音を言ってしまう。だから、本音がすぐに新聞やネットに上がって、舌禍で問題になる。欧米人は、本音は墓場まで持って行く。その分、建前を全力で議論する、戦わせるという習慣になっている。」

「建前」いついて全力で議論するのが、欧米人であり、そのために討論会の準備はとても大きなお金が動くそうです。すべては建前。

その一方、
抜粋:
「だから、日本では政策論争しようとも、どうせ実際は違うよね、と聞いている側は思っているし、しゃべる側もどうせ違うが、後で揚げ足を取られたり、言質は取られないように、具体的な政策提言なのに、とてつもなく曖昧に(しかししゃべり方だけは力強く)主張する。」

というのが日本。
”実際は違うよね”ということで、建前と本音とを使い分け切れていないところに、生産的な議論ができない。特に政治では…。
公開討論をするのであれば、本音であっては揚げ足取りに終始してしまうため、真剣に建前論で議論するしかないのだと思います。
「実は」とか「本当は」と言ってしまう議論は、その全てに信憑性がなくなってしまいますから、徹頭徹尾、建前論で行くしかありません。

記事の中で「もはや本音で論戦を戦わせる必要がある?」の部分が日本の政治、金融政策会議には必要なのではと思いました。
非公式でもよいから、本音で意見をぶつけられる場があれば、もう少し組織としてもまとまるかもしれませんし、まともな人材も育つのではないかなと・・・。

抜粋:
「しかし、やっぱりこのままでは日本はダメなのではなかろうか。本音で議論を戦わせることが重要なのではないか。金融政策決定会合をやっても、審議委員という社外取締役的なのか、社内の中途採用取締役なのか、わからない人が、後で公開される議事録に残ることを前提に議論して、本当に意味のある議論になるのか。」
「かつてのように、「円卓(マルタク)」という内部で議論するスタイルのほうが、やっぱりよっぽど実質的にいい議論ができるのではないか。自民党の総裁選挙も、あんな茶番の討論会よりも、密室での冷や汗の吹き出す腹の探り合いで決まるほうがよっぽど本質的で、総理の3年間は党という組織がまとまるのではないか。そしてそれは政治、政策にとってもプラスではないか、という気がしてくる。」
「かつての密室がダメ、というなら、公開討論は今のままではダメだ。日本はどっちにするのか、あるいは第三の道、日本的な世界にこれまでにない、画期的な社会や組織としての議論の在り方を発明して、イノベーションを起こさないといけないのではないだろうか。 しかし、そのイノベーションを起こすための議論をする場が日本には存在しえないので、私はやっぱり絶望的になるのである。」

質問をする、議論をする。
とても簡単なように見えますが、有意義な質問や議論というのは
実際の会社でもあまり見たことがないかもしれません。

むしろ、喫煙室での話の方が、良い議論ができてたりしたかなと思います。


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