ブルデューとギデンズ -- 理論世界と実践世界の狭間で
この論考は、ブルデューとギデンズの学者としての生に共鳴するものではない。むしろ、彼らが苦闘の末に作り出した社会学的成果の、その理論枠組みの部分だけを抽出し、徹底的に脱色したものである。
■ 本稿と対になる論考
0. 本稿のコンセプト
ブルデューとギデンズの、それぞれの論理構造を明らかにする。
なぜブルデューは「ハビトゥス」概念を必要としたのか、なぜギデンズは「構造の二重性」を論じなければならなかったのか。
ブルデューとギデンズの論理は、鏡写しの関係になっている。
1. 客観主義と主観主義の止揚
両名とも、社会学における「客観主義」と「主観主義」を乗り越えようとした。双方を批判しつつ、双方を取り込もうとした。
客観主義は、個々の行為体を超越して拘束力を持つ「社会」を強調する立場。デュルケーム、レヴィ=ストロース、パーソンズ、アルチュセールなどが該当する。
主観主義は、行為体の創造的能力としての「主体性」を強調する立場。ガーフィンケル、ゴフマン、サルトルなどが該当する。
社会科学を人為的に分割する諸対立のうちで最も基本的で最も破壊的な対立は、主観主義と客観主義の対立である。(中略)各々の認識様式の成果を保存しながら(立場の違いを明確に自覚して関与することから生まれることをも無視しないで)二つの認識様式を対立させる敵対関係を乗り越えるためには、学問的で認識様式(社会的世界の日常的経験の原理をなす実践的認識様式に対立する)たる限りで両者が共有する諸前提を解明しなければならない。
理解社会学の存立がいわば主観の帝国主義にかかっているとするなら、機能主義と構造主義が提起しているのは、社会という客観の帝国主義であると言えるだろう。構造化理論を彫琢するにあたって、私がもっとも強く望んでいることの一つは、帝国の建設を目指したこれらの試みを終焉させることである。
2. 社会学は何を対象にするか
関係論的な思考を忘れてはいけない。
認識するという働きがあって、認識主体と認識対象が構築される。この主体と対象の在り方は、社会学者であっても例外ではない。
構造を認識しようとすると、認識対象として「構造」が構築される。「主体性」についても同様。しかし、認識作用を向けなければ、何も認識することができない。
科学的行為の中で最も基本的なもの、それは対象の構成です。仮説なしに、また対象を構成する道具なしに、現実に向かうことはできません。一切の前提を捨てていると思っている時、知らず知らずのうちに対象をつくっているのであり、しかもその場合、たいていは誤った仕方で対象をつくってしまっているのです。社会学の場合、特に対象構成に注意を払う必要があります。
学問的分析(主観主義であれ客観主義であれ)について分析されざるものは、社会的世界への学者の主観的関係並びにこの主観的関係が想定する客観的(社会的)関係である。知性主義とは、こういう表現が許されるとすれば知性中心主義 (l’intellectualocentrisme) であって、これは分析される実践の原理に、説明のために構成された諸表象(規則、モデル、等々)を通して、社会的世界への関係(観察者の関係)と観察を可能にする社会的関係を据える考え方である。客観化の対象となる実践の中に客観化されざる理論的関係を投影することは、相互に連関しあった一群の科学上の誤謬を必ず産み出す。
社会学者は、「実践」あるいは「実践の継続的なプロセス」を対象とすべきだ。
他の実践から分離した「一つの実践」は、すでに認識枠組みの産物である。
社会科学の基本的な研究領域は、構造化理論にしたがうなら、個々の行為者の経験でもなければ、いかなる形式であれ社会的全体性の存在でもなく、空間と時間を越えて秩序づけられている社会的実践なのだ。
問題はしたがって、構造の実在論から逃れることである。一時的経験と手を切り、客観的な関係を構築する上では必要な契機たる客観主義が、それらの関係を、個人と集団の歴史の外ですでに構成された実在として取り扱うことによって実体化する時には必ずや行き着く構造の実在論を、しかも、社会的世界のもつ必然性の説明力を全く欠く主観主義に陥らずに逃れることである。そのためには実践に立ち戻らなければならない。opus operatum 〔完成作品〕と modus operandi 〔製作法〕との、歴史的実践の客観化された生産物と身体化された生産物との、諸構造とハビトゥスとの弁証法の場所たる実践に。
3. いかに「実践」を分析するか
存在論的に《在る》のは「実践のプロセス」だけだが、あえて特定の認識枠組みを投げかけることで、認識と意味を作り出す。
客観主義の成果と主観主義の成果をどちらも含みつつ、それらを超えるような認識枠組みを用いる必要がある。
「批判」のために、認識によって対象を作り出さなければいけない。
認識は、《在らぬ》ものを「ある」とする働きである。それゆえに、理論世界(認識の世界)と実践世界(認識以前の世界)はズレていて、必然的に軋みを起こす。
理論世界と実践世界の軋み、あるいは矛盾を、それを承知したうえで、理論世界の内部に取り込んでしまおうとする試みこそが、ブルデューとギデンズがそれぞれ作り上げた認識枠組みである。
4. ブルデューとギデンズの論理構造
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両者の枠組みに共通した論理構造
実践のプロセスを「実践」に切断して認識するとともに、構造的なものと主体的なものを分節し、それらの総合 synthese として「実践」を把握する。
構造的なものと主体的なものは、互いに作り作られるという「二重性」をそれぞれ有するが、その二重性はどちらか一方の概念に押し付けられ、もう片方は見かけのうえでの安定性を獲得する。
二重性を押しつけられた方の概念は、時間-空間の外側に置かれ、安定性を獲得した方の概念は、「実践」とともに時間-空間の内部に置かれる。
ブルデューの論理における「軋み」の集約
ブルデューは、「ハビトゥス」の二重性を強調し、時間-空間の外部に置く。その結果、「構造」は概念上の安定性を獲得する。
時間-空間の内部には「構造」と「実践」が置かれ、人類学的傾向を持った理論世界が形成される。
ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造 (structures structurantes) として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造 (structures structurées) である。
身体化され、自然となり、そこからして、そのものとしては忘却された歴史であるハビトゥスは、自らがその生産物をなす全過去の作用しつつある現前である。したがってハビトゥスは、直接の現在が外部から及ぼす様々な規定に対する相対的な独立を実践に附与するのである。
ギデンズの論理における「軋み」の集約
ギデンズは、「構造」の二重性を強調し、時間-空間の外部に置く。
その結果、「行為主体性」は概念上の安定性を獲得する。時間-空間の内部には「行為主体性」と「実践」が置かれ、ミクロ社会学的傾向をもった理論世界が形成される。
構造化の構想にとって決定的に重要なのは構造の二重性という原理である。(中略)構造の二重性という考え方に従えば、社会システムの構造特性は、それが再帰的に組織化する実践の媒体かつ結果である。
構造が変換関係の「ヴァーチャルな秩序」であるというのは、次の二つのことを意味している。すなわち、再生産された社会的慣習としての社会的システムが「諸構造」をもつのではなく「構造特性」を示すということ、そして、構造は、社会的慣習のなかに具現化した場合にのみ、知識能力をもった行為者のふるまいを方向づける記憶の痕跡として、時間-空間に現前するということである。
「二重性」を強調された概念は、拘束的かつ能力付与的に振る舞う。
まさしくハビトゥスとは、歴史的・社会的に状況づけられたハビトゥス生産の諸条件を限界としてもつ生産物――思考、知覚、表現、行為――を、(制御を受けながらも)全く自由に産み出す無限の能力なのだから、ハビトゥスが保証する自由、条件づけられ、かう条件づきの自由は、初期条件づけの機械的な単なる再生産からも、予見できない新奇なものの創造からも、等しくかけ離れたものである。
構造は拘束と等置されるべきものではない。そうではなくて、構造はつねに拘束的かつ能力付与的なのである。
ブルデュー:人類学的な「構造」概念
生存のための諸条件の間に均質性があるために生ずる集団や階級のハビトゥス間の均質化によって実践は、どんな戦略上の計算も、規範へのどんな意図的準拠からも離れたところで客観的に同調したものになり、またあらゆる直接の相互行為が不在のままでも、ましてや目に見える協奏なしでも互いに整合するものとなる――相互行為そのものも、その形式を、相互行為の中にある当事者たちの心的傾向を生産し、さらにそれら心的傾向を通じて当の相互行為の中で、及び別のところで、彼ら当事者に自分の相対的な位置を割り当てる客観的な諸構造に負っている。
ギデンズ:エスノメソドロジー的な「行為主体性」概念
行為者性とは、人々が何ごとかを遂行するさいにもつ意図ではなく、それを遂行するための能力を、その第一義としているのだ。(中略)行為者性とある出来事の端緒となった人物とのあいだに関連があると言えるのは、当該人物が一連の行動のいついかなる局面においても別様に行動することが可能であっただろうという意味、当該人物が介入していなかったとすれば実際に生起したどの出来事も決して起こりはしなかったであろうという意味においてである。
5. ブルデューの理論の中心概念
場(界) champ = field とゲーム
人々の実践が相互に関連して生起する時間-空間が、「場」と呼ばれる。それぞれの場には客観的な構造が存在し、構造とハビトゥスの総合として実践が生起する。
人々の実践は文化的闘争として、また場は文化的闘争の舞台として把握される。文化的闘争は一定のルールに沿って実践されるゲームのようなものであり、参加者は自分にとって有利なポジションを維持・獲得しようと権謀術数をめぐらす。
社会は、複数の場がさらに構造化された時間-空間である。場と場の文化闘争によって、社会のダイナミクスが表れる。
ギデンズにも、「場 locale」の概念は存在する。 “local” (地元住民, 地元の)ではなく、 “locale” (現場, 場所, 場面)である。ブルデューの champ とは異なり、 locale は構造を含まない。ギデンズの「構造」は時間-空間の外部にあるからである。実践の舞台装置たる「場」において継続的・相互的に行為主体性が発揮されることで、実践は文脈性 contextuality を持つ。この考え方は、ガーフィンケルやゴフマンの影響を強く受けている。
資本
マルクスの関係論的な「資本」概念を受け継ぎつつ、それを多元的に発展させた。
個人や集団は資本を用いて文化闘争に参加し、そのなかで資本を生産・再生産する。
経済資本・文化資本・社会関係資本の三つに区別され、それらは互いに変換可能である。文化資本はさらに、身体化されたもの、物象化されたもの、制度化されたものに細分化され、それらも互いに変換可能である。
「資本」はどこにあるのか。何かを「資本」として認識・活用できるのは、それを可能とするハビトゥスが実践(表象を含む)の生成図式として機能しているからである。また、「身体化された文化資本」とハビトゥスを論理的に区別することはできない。よって、ブルデューの「資本」は構造ではなくハビトゥスの側にあると考えられる。なお、ブルデューの「資本」に対応するのは、ギデンズの「諸規則と諸資源」だが、これはまさにギデンズの「構造」概念なのである。いずれにせよ、「資本」もしくは「諸規則と諸資源」が認識的に構築されるものだという理解は共通しているが、論理構造が鏡写しになっていることで、理論内の位置づけは対照的になる。
ハビトゥス
普通に生活している限り、それを「ハビトゥス」として認識したり、それを意識的に活用したりすることはない。むしろ、意識や実践の生成図式として機能する。
象徴暴力
人々の主観的世界においては暴力性が否定されていることによってこそ、実践のレベルで完遂される権力行使や支配の様式。
「正義」「美徳」「正統」「普遍」といった価値観と結びつき、人々を自発的かつ自明的に服従させる効果を持つ。
社会の安定化装置である一方、人々を疎外する装置でもある。
「自由で自律した個人」という近代社会の前提は、経済的・社会的格差を正当化し、疎外された人々の批判の矛先を、利権者や社会構造からそらし、彼ら自身へと向け返してしまう、強力な象徴暴力の装置である。
公然たる暴力と穏やかで眼に見えない暴力とのどちらを「選ぶ」かは、両当事者間の力関係の状態にかかっているし、仲裁する集団の統合力と倫理的な公明正大さに左右される。高利貸しや無慈悲な主人の暴力といった公然たる暴力が集団の弾劾に会ったり、暴力的な反撃あるいは犠牲者の逃亡を惹き起こしたりする(すなわち、反撃や逃亡が起こるのは、訴えるところがないとか利用しようとした関係そのものが消失するからである)限りは、象徴的暴力はシステムの経済に最も適合しているがゆえに最も経済的な支配様式として押しつけられる(ここで言う象徴的暴力とは、穏やかで眼に見えない、暴力としては否認される、蒙るのと同じ程度に選び取られる、そうした暴力であって、信頼・義務(債務)・人格的忠誠・歓待・贈与・負傷・感謝・あわれみの暴力、一言でいえば名誉の道徳が讃えるすべての美徳の暴力である)。
6. ギデンズの理論の中心概念
構造
意味作用の構造、支配の構造、正当化の構造という三つの視点が提示される。あくまでも分析視点なので、それぞれの構造は互いに重なり合っている。
行為主体性
その大部分は、言説的意識ではなく実践的意識の水準で発揮される。
構造化
自分や他者の実践を反省的(再帰的)にモニタリングすることで、認識的に構造が再生産される過程が、「構造化」と呼ばれる。
行為主体性によって構造は創造的に活用されるのであり、また、モニタリングのプロセスにおいても行為主体性は発揮されるため、構造は変容可能性に開かれている。すなわち、社会変革の可能性が理論的に示される。
7. それぞれの理論を用いた研究例
ブルデューとギデンズの理論は、社会学におけるメタ理論的な側面があり、研究の具体的な方法論を拘束するものではない。
量的調査でも質的調査でも、使えるものは使ってよい。ただし、彼らの理論の人間観や社会観を、正確に理解している必要がある。
ブルデューの理論は、構造の安定性を強調するがゆえに、特定の構造における権力関係の分析や、構造に投げ込まれた人間のハビトゥスが再構築される過程の分析に向いている。一方、社会構造の歴史的過程を分析するには向いていない。
ギデンズの理論は、人々の行為主体性を強調するがゆえに、社会構造の変動局面や、文脈に投げ込まれた人間が構造を構築する過程を分析するのに向いている。一方、構造によって規定される実践の分析には向いていない。
ブルデューの理論を用いた研究事例
ブルデュー (Bourdieu, 1979) の『ディスタンクシオン』がもっとも秀逸だろう。美的成功と趣味の形成、それらの社会的分布と闘争的関係を、質問紙調査や詳細なインタビュー、政府による統計調査など、あらゆる手段を駆使して描き出した。
ギデンズの理論を用いた研究事例
バレットとウォルシャム (Barrett & Walsham, 1999) は、ロンドン保険市場における電子トレーディングアプリの導入局面を対象にして、新しいテクノロジーが社会を変えていく様子を描き出した。新しいテクノロジーが決定論的に社会を変容させるのではなく、構造と行為主体性の弁証法的プロセスによって人々の実践が変容し、結果的に「社会変容」として表れていることを示した。
フィルビーとウィルモット (Filby & Willmott, 1988) は、広報の専門家たち(左遷部署)を対象に研究を行い、会社が彼らに与えた役割とジャーナリストとしての職業神話の間でアイデンティティを確立する様子を分析した。また、彼らが経営陣の権力から自分たちを守るために構築したストーリーが、彼らを左遷部署に押し込む権力関係をかえって隠蔽している事態を明らかにした。
8. 両者の理論の意義
社会学のメタ理論
「社会」や「個人」といった概念をいかに捉えるべきかという、社会学に対する規範理論の側面を持つ。
マルクス的・現象学的な、関係論的・弁証法的発想に基づいて、ヴェーバーやデュルケームが試みた「社会学の基礎付け」を、高次元で繰り返している。
理論世界と実践世界の狭間で
理論世界と実践世界の必然的なズレを承知したうえで、その軋みを理論世界に取り込むことで、理論世界の論理的完全性を犠牲にしながら、実践世界に近づく手法を確立した。
限りなく記述的な分析を行うために、対象の分析に終始するのではなく、分析対象と研究者(分析主体)との関係を反省しながら対象を分析することの必要性を明らかにした。
■ 本稿と対になる論考
■ 参考文献
Bourdieu, P. (1980). LE SENS PRATIQUE. Paris: Les Éditions de Minuit. (ブルデュー, P. /今村仁司・福井憲彦・塚原史・港道隆 [訳] (1990). 『実践感覚 1・2』 みすず書房)
Bourdieu, P. (1979). La Distintion: Critique sociale du jugement. Paris: Les Éditions de Minuit. (ブルデュー, P. /石井洋二郎 [訳] (1990). 『ディスタンクシオン―社会的判断力批判』 藤原書店)
Bourdieu, P, Chamboredon, J. C., & Passiron, J. C. (1973). Le métier de sociologue. Paris: Mouton Éditeur. (ブルデュー, P., シャンボルドン, J. C., パスロン, J. C. /田原音和・水島和則 [訳] (1994). 『社会学者のメチエ』 藤原書店)
Barrett, M., & Walsham, G. (1999). Electronic trading and work transformation in the London insurance market. Information Systems Research, 10, 1-22.
Filby, I., & Willmott, H. (1988). Ideologies and contradictions in a public relations department: The seduction and impotence of living myth. Organization Studies, 9, 335-49.
Giddens, A. (1984). The constitution of society: Outline of the theory of structuration. Cambridge, MA: Polity Press. (ギデンズ, A. /門田健一 [訳] (2015). 『社会の構成』 勁草書房)
Prasad, P. (2005). Crafting qualitative research: Working in the postpositivist tradition. New York: M.E. Sharpe. (プラサド, P. /箕浦康子 [監訳] (2018) 『質的研究のための理論入門―ポスト実証主義の諸系譜』 ナカニシヤ出版)