ウェーバー『倫理』を素直に読む
ウェーバーはさまざまに解説される。だからこそ、ここではウェーバーのテクストに内在することをとおして、ウェーバーは何を論証したのかを正確に把握したい。「正確に」というのは、書かれたことを書かれたとおりに読み取ることであって、書かれたこと以上を読み取ることではない。そのために、先入観を排除した読解を心掛けた。
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論稿の初めに、ウェーバーは以下のような現象を指摘する。
ここから分かることは、プロテスタンティズムと資本主義文化(近代文化)の関連は、ウェーバー以前からすでに指摘されていたということである。プロテスタンティズムと資本主義文化には親和性があるという言説が流通する中で、そのような一般論をことごとく棄却することをとおして、何が問われるべきなのかを見極めていく。
職業統計を見る限りにおいて、プロテスタンティズムという信仰と資本主義文化に何らかの親和性があることは認めざるを得ない。しかし、その親和性は、資本主義文化の唯物性や反禁欲性には関係していない。古プロテスタンティズムの宗教的な特徴は、資本主義文化の決定的ではあるが通常言及されない特徴と親和的なのである。
この「資本主義文化の決定的ではあるが通常言及されない特徴」を説明するために、ウェーバーは資本主義文化の理念系としてベンジャミン・フランクリンの言葉を引用する。ここでフランクリンは、引用されているかぎりにおいて理念型なのであって、実在する人物としてのフランクリンが言及されているわけではないことには注意したい。とにかくウェーバーは資本主義文化の決定的な特徴として「天職思想」と「合理主義」があることを示し、それが「禁欲」という非合理を内包していることも示すのである。
近代化は、合理化のプロセスだと言われる。確かに主観的世界の内部では合理化が進行するが、その主観的世界はひとつの非合理に支えられているのである。お金を稼ぐということを最高善として、そのためにひたすら生活と事業を合理化していくが、その最高善は少なくとも幸福主義的な観点からは非合理でしかない。近代世界を外側から支えている非合理、すなわち「合理的」な生活態度を生み出す「天職思想」のエートスは、どのような起源と系譜をもつのかという問いが立てられる。
そしてウェーバーは、ルターが聖書翻訳に際して生み出した「天職 Beruf」の概念が、資本主義社会を特徴づける「天職 Beruf」の概念の起源としては不十分であることを示したうえで、次のように論稿の問題を限定する。
この限定は、次のようにも言い換えられる。
余談ではあるが、このような文章からは、ウェーバーの誠実さ(あるいは生真面目さ)が見てとれる。論証するトピックと論証しないトピックを明確に区別し、論証しないトピックについてはどれほど興味深くても分からないと宣言する態度に、自然科学を可能なかぎり模倣しようとする学者としての矜持(あるいは危機意識)を感じる。
ここまでが『倫理』の第1章である。ウェーバーは、近代文化あるいは資本主義社会を複数の制度が合わさったものであり、それぞれの制度は異なる起源や系譜をもつと捉えている。そのため、ウェーバーは近代文化そのものの起源や系譜を検証しようとはしない。そうではなく、彼が対象として定めているのは「職業理念を土台とした合理的生活態度」の起源であり、ルターの「天職 Beruf」がフランクリンの「倫理」へと至るまでの系譜なのである。ウェーバーが論証したのは、これ以上でもこれ以下でもない。
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第2章第1節では、プロテスタンティズムの「確証」の思想こそが、世俗内禁欲すなわち「世俗の内部で行われる生活態度の合理化」に欠かせなかったことが示される。
平易に言い換えれば、生活態度の合理化とはそもそも禁欲的なのであって、人々をそのような世俗内禁欲へと動機づけるためには、人々を救済についての不安へと突き落さなければならなかったのである。ルターの「天職」概念は、確かに、従前から教会内で営まれていた禁欲的生活が世俗へと移行することの基盤となった。しかし、それだけでは世俗内禁欲は成立しない。禁欲という生活態度を選択させるためには、禁欲をはるかに上回る地獄を対置する必要があったのであり、その地獄とは、自己の救済を確証できなければ救済されることはないという「確証」の思想だった。こうして、ルターの「天職」概念は、プロテスタンティズムの「確証」の思想を経由して、世俗内禁欲としての生活態度の合理化を動機づける。
ここまでで論証の大部分は完成した。残る仕事は、合理化された生活態度から、いかに宗教的な動機が欠落していくかを示すことだけである。近代資本主義の精神の理念系として提示されたフランクリンには、宗教的な動機は一切見られない。
合理化された生活態度から宗教的な動機が欠落していく経緯は、極めて単純である。ウェーバーは、「ピュウリタンは天職人たろうと欲した――われわれは天職人たらざるをえない」という言葉でそれを表現している。生存のためには必要がないにもかかわらず生活態度を合理化することには、生存とは異なる動機が求められる。しかし、生存のために生活態度の合理化が必要なのであれば、それ以上の動機は求められない。こうして、形骸化した「天職思想」と非合理に支えられた「合理主義」とが人々のエートスとなり、近代文化の一つの特徴である「職業理念を土台とした合理的生活態度」が完成する。
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『倫理』の論証は、これ以上でもこれ以下でもない。この味気ないような感覚を嫌って、多くの知識人や教養人が『倫理』を拡大的に誤読するということを繰り広げてきたが、それではウェーバーの意図を裏切ることになる。今回のコンセプトに従い、ここで打ち止めにする。