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ウェーバー『倫理』を素直に読む


 ウェーバーはさまざまに解説される。だからこそ、ここではウェーバーのテクストに内在することをとおして、ウェーバーは何を論証したのかを正確に把握したい。「正確に」というのは、書かれたことを書かれたとおりに読み取ることであって、書かれたこと以上を読み取ることではない。そのために、先入観を排除した読解を心掛けた。


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 論稿の初めに、ウェーバーは以下のような現象を指摘する。

さまざまな種類の信仰が混在している地方の職業統計に目をとおすと、通常つぎのような現象が見出される。それはドイツ・カトリック派会議の席上や同派の新聞、文献の中でたびたび論議されていることだが、近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ。

大塚訳, p. 16

 ここから分かることは、プロテスタンティズムと資本主義文化(近代文化)の関連は、ウェーバー以前からすでに指摘されていたということである。プロテスタンティズムと資本主義文化には親和性があるという言説が流通する中で、そのような一般論をことごとく棄却することをとおして、何が問われるべきなのかを見極めていく。

したがって、もしも、古プロテスタンティズムの精神における一定の特徴と近代の資本主義文化との間に内面的な親和関係を認めようとするならば、われわれはそれを、古プロテスタンティズムが(通常考えられているように)多少とも唯物的なあるいは反禁欲的な「現世のたのしみ」を含んでいたというようなことにではなくて、むしろ古プロテスタンティズムのもっていた純粋に宗教的な諸特徴のうちに求めるよりほかはないのだ。

大塚訳, p. 33

 職業統計を見る限りにおいて、プロテスタンティズムという信仰と資本主義文化に何らかの親和性があることは認めざるを得ない。しかし、その親和性は、資本主義文化の唯物性や反禁欲性には関係していない。古プロテスタンティズムの宗教的な特徴は、資本主義文化の決定的ではあるが通常言及されない特徴と親和的なのである。

 この「資本主義文化の決定的ではあるが通常言及されない特徴」を説明するために、ウェーバーは資本主義文化の理念系としてベンジャミン・フランクリンの言葉を引用する。ここでフランクリンは、引用されているかぎりにおいて理念型なのであって、実在する人物としてのフランクリンが言及されているわけではないことには注意したい。とにかくウェーバーは資本主義文化の決定的な特徴として「天職思想」と「合理主義」があることを示し、それが「禁欲」という非合理を内包していることも示すのである。

「合理主義」は一つの歴史的概念であり、そのなかに無数の矛盾を包含しているのであって、われわれの究明すべき点は、過去および現在において資本主義文化のもっとも特徴的な構成要素となっている≫Beruf≪「天職」思想と――前にもみたとおり純粋に幸福主義的な利己心の立場からすればはなはだ非合理な――職業労働への献身とを生み出すに至った、あの「合理的」な思考と生活の具体的形態は、いったい、どんな精神的系譜に連なるものだったか、という問題でなければならない。それも、この場合、とくにわれわれの興味を惹くのは、この≫Beruf≪「天職」概念のうちに、(すべての≫Beruf≪「天職」概念と同じように)存在する、この非合理的要素はどこからきたのか、ということなのだ。

大塚訳, p. 94

 近代化は、合理化のプロセスだと言われる。確かに主観的世界の内部では合理化が進行するが、その主観的世界はひとつの非合理に支えられているのである。お金を稼ぐということを最高善として、そのためにひたすら生活と事業を合理化していくが、その最高善は少なくとも幸福主義的な観点からは非合理でしかない。近代世界を外側から支えている非合理、すなわち「合理的」な生活態度を生み出す「天職思想」のエートスは、どのような起源と系譜をもつのかという問いが立てられる。

 そしてウェーバーは、ルターが聖書翻訳に際して生み出した「天職 Beruf」の概念が、資本主義社会を特徴づける「天職 Beruf」の概念の起源としては不十分であることを示したうえで、次のように論稿の問題を限定する。

当面の目的からすれば、われわれはつねに宗教改革の諸側面のうちでも、本来の宗教的意識からは当然に周辺的なもの、またおよそ外面的なものと見なされるはずの側面を取り扱わねばならない。なぜかというと、われわれが企図するところは、ただただ、歴史における無数の個別的要因から生まれ出て、独自の「世俗的」な傾向をおびる近代文化の発展が織りなす網の目のなかに、宗教的要因が加えた横糸をばある程度あきらかにする、ということだけだからだ。こうしてわれわれは、近代文化のもつ一定の特徴ある内容のうち、どれだけを歴史的原因として宗教改革の影響に帰属させることができるか、ということだけを問題とする。

大塚訳, p. 134-135

 この限定は、次のようにも言い換えられる。

ところで、また、他面で「資本主義精神」(もちろんここで暫定的に使用するような意味で)は宗教改革の一定の影響の結末としてのみ発生しえたとか、また、経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だなどというような馬鹿げた教条的テーゼを、決して主張したりしてはならない。

大塚訳, p. 136

 余談ではあるが、このような文章からは、ウェーバーの誠実さ(あるいは生真面目さ)が見てとれる。論証するトピックと論証しないトピックを明確に区別し、論証しないトピックについてはどれほど興味深くても分からないと宣言する態度に、自然科学を可能なかぎり模倣しようとする学者としての矜持(あるいは危機意識)を感じる。

 ここまでが『倫理』の第1章である。ウェーバーは、近代文化あるいは資本主義社会を複数の制度が合わさったものであり、それぞれの制度は異なる起源や系譜をもつと捉えている。そのため、ウェーバーは近代文化そのものの起源や系譜を検証しようとはしない。そうではなく、彼が対象として定めているのは「職業理念を土台とした合理的生活態度」の起源であり、ルターの「天職 Beruf」がフランクリンの「倫理」へと至るまでの系譜なのである。ウェーバーが論証したのは、これ以上でもこれ以下でもない。


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 第2章第1節では、プロテスタンティズムの「確証」の思想こそが、世俗内禁欲すなわち「世俗の内部で行われる生活態度の合理化」に欠かせなかったことが示される。

ところで、いま一度要約して言うならば、われわれの研究にとって決定的な意味をもつ点は、次のとおりである。どの教派においてもつねに、宗教上の「恩恵の地位」をば、被造物の頽廃状態つまり現世から信徒たちを区別する一つの身分(status)と考え、この身分の保持は――その獲得の仕方はそれぞれの教派の教義によって異なるけれども――なんらかの呪術的=聖礼典的な手段でも、懺悔による赦免でも、また個々の敬虔な行為でもなくて、「自然」のままの人間の生活様式とは明白に相違した独自な行状による確証、によってのみ保証されうるとした。このことからして、個々人にとって、恩恵の地位を保持するために生活を方法的に統御し、そのなかに禁欲を浸透させようとする起動力が生まれてきた。〔......〕このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ。

大塚訳, p. 286-287

 平易に言い換えれば、生活態度の合理化とはそもそも禁欲的なのであって、人々をそのような世俗内禁欲へと動機づけるためには、人々を救済についての不安へと突き落さなければならなかったのである。ルターの「天職」概念は、確かに、従前から教会内で営まれていた禁欲的生活が世俗へと移行することの基盤となった。しかし、それだけでは世俗内禁欲は成立しない。禁欲という生活態度を選択させるためには、禁欲をはるかに上回る地獄を対置する必要があったのであり、その地獄とは、自己の救済を確証できなければ救済されることはないという「確証」の思想だった。こうして、ルターの「天職」概念は、プロテスタンティズムの「確証」の思想を経由して、世俗内禁欲としての生活態度の合理化を動機づける。

 ここまでで論証の大部分は完成した。残る仕事は、合理化された生活態度から、いかに宗教的な動機が欠落していくかを示すことだけである。近代資本主義の精神の理念系として提示されたフランクリンには、宗教的な動機は一切見られない。

近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素のひとつというべき、職業理念を土台とした合理的生活態度は――この論稿はこのことを証明しようとしてきたのだが――キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった。読者はここでいま一度、この論稿の冒頭で引用したフランクリンの小論を読みかえして、その個所でわれわれが「資本主義の精神」とよんだあの心情の本質的要素が、さきにピュウリタンの〔天職意識に由来する〕職業的禁欲の内容として析出したものと同じであって、ただフランクリンのばあいには、宗教的基礎づけがすでに生命を失って欠落しているにすぎない、ということを見とどけていただきたい。

大塚訳, p. 363-364

 合理化された生活態度から宗教的な動機が欠落していく経緯は、極めて単純である。ウェーバーは、「ピュウリタンは天職人たろうと欲した――われわれは天職人たらざるをえない」という言葉でそれを表現している。生存のためには必要がないにもかかわらず生活態度を合理化することには、生存とは異なる動機が求められる。しかし、生存のために生活態度の合理化が必要なのであれば、それ以上の動機は求められない。こうして、形骸化した「天職思想」と非合理に支えられた「合理主義」とが人々のエートスとなり、近代文化の一つの特徴である「職業理念を土台とした合理的生活態度」が完成する。


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 『倫理』の論証は、これ以上でもこれ以下でもない。この味気ないような感覚を嫌って、多くの知識人や教養人が『倫理』を拡大的に誤読するということを繰り広げてきたが、それではウェーバーの意図を裏切ることになる。今回のコンセプトに従い、ここで打ち止めにする。




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