美の考察 1 本多裕樹による
美の考察 1
「芸術の書」をかつて書き、それは10年以上前のこと、それから文章の修練もし改めて、今の心境、今の芸術について思うところを書き綴っていきたい。本来なら芸術論を出すには老後かまとめの時期に書くものらしいのですが、今、私は自分の芸術観がどんなものか自分を探る感じで語っていきたいと思います。そして、あの10年前より文章の修練も高めてきたのでいくらか読みやすく書けるように思います。そして、美学という遠大な課題について今どように考えているか内省しつつ考察していきたく思います。
美学(1)
美学とはまた遠大な課題だ。「美」それは誰もが違った感覚もあるし人それぞれであることもあります。誰もが見てこれが美と言うのも強制的でさえ思える。個人的な美なのか?大衆的な美なのか?それは個人で各々違うとなれば、何を信じたらいいかわからないでしょう。しかし、美に関しては個人的でいいかも知れない。趣味の味も入るであろうし、芸術を行う人にとって誰かと同じであっては新開発の斬新な新鮮な美にならない。誰かの真似でもいいのだけれどもそれじゃあつまらないものでありましょう。自分の美、これがあっていいのだ。なので、個人的なものもあるだろうし、大衆のみんながこれが美味しいとか甘いとか、誰が見ても美しいと言われるようなものもあるであろう。そういうのもある。大衆より、もっと原始的な本能からこれを美しいと思う存在や実在がある。生命の可能性に感動するそんなものもある。感情的なものもあるし、感覚である事象を美しいと思うものもあろう。しかし、これは個人的な美よりもっと根源的なものだ。誰が見ても感動する。これは本当の美なのだろう。それはわだかまりがなく、引っかかりもなく、素直にそれを美と信じることができるのだから。例えば、花は美しいと小学生は教師から教えられる。それで花は美しいと認識する前に、花は美しいと生命の根源から認識している。そうなれば美も根源には真実のような領域があるのだろう。美に関して、誰か他の人の生き方を見てそれを美醜で判断することもあるし、判断しない場合は友情ゆえに判断を捨てることがある。そう言う侠によって粋な付き合いもある。それを美とする事もある。では、美は信仰か。そうでもない。日常に、世界に広がっている。美しかないのかと思うくらいである。個人的な美はこれもまたあるが、自分自身が苦しければ世界が不幸に見える。自分自身が幸福であれば世界は薔薇色になるかも知れない。しかし、人生においては苦しんで刻苦している人を美しく哀愁を感じることがある。むしろ、幸福そうにしている人はかえって堕落して凡庸に見える事もがある。そういった判断が美の一部を見ることができる。
◯
となるといくらか整理しておく必要がある。
◯ 私たちは美についてはあまりにもこの世に満ちていて、美に満たされお花畑のように美の瞬間に広がっている。
◯ 個人の心境によって、美の判断が変わる。
◯ つまり、心次第で世界も変わるし、美の基準も変化する。
◯ 体調、心理状態で美が変わる。美は心を表し、その人の思想を形成する。つまり、美そのものが道徳や個人のアイデンティティーになっていく。
◯ 環境、教養次第で美の可能性は輝く。
◯ 原始的な美がある。それは高次の美であり私たちが本来あった世界の美であること、それはどこまでも遠大な生命の源からの美と調和された本来の光であること。
令和6年8月29日 本多裕樹
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