「快感」を軸にして考えると、スポーツ・勉強・芸術・仕事etc.を統合できる
「動作のコツを掴むこと」と「考えがまとまること」は同質のものだろう。どちらも「大きな快感を伴う」という点が同じだ。
動作のコツを掴めると気持ちいいし、こうすれば良いのか!と思考の筋道が定まったときにも快感が生じる。自転車に初めて乗れたときの快感と、それまで分からなかったことが分かったときの快感は同質のものだ…ということである。
スポーツも勉強も難なくこなせる文武両道タイプの人は、無意識的なのかもしれないが、それを知っているのだろう。
この「うまくできると、快感が生じる」という流れは、どの分野であろうと通じる普遍的な原則である。
ということは、スポーツでも勉強でも芸術でも何でもできるようになりたい(あるいは一つの分野を深く究めたい)場合、「快感を最大化できるような方向」へと進んでいけば良いのではないだろうか。
例えば、スポーツの中でだけ見ても、「100mを9秒台で走る人が味わう快感量」は、「100mを12秒で走る人が味わえる快感量」よりもはるかに多いはずだという見当がつく。
具体的には、100mを12秒で走る場合は後半になるともう足も上がらなくなって気持ち悪くなるだろうが、9秒で駆け抜ける場合は身体に羽が生えたような軽やかさのままゴールインできるはずである。
また、他者から注目されたり称賛されたりで承認欲求が充足されることによる快感も、9秒台の人のほうがよほど多いはずである。
人間を含む生命は
ものだから、100mを9秒台で走れるくらい走動作に「矛盾が少ない」のならば、走る動作そのものが気持ちいいのも当然だと言えるかもしれない。
逆に、100mを走って12秒かかる人の走動作は矛盾が多い(例:共収縮、強い緊張の発生、腹圧抜け、末端部の慣性モーメントが大きいことなど)ので、矛盾だらけの走動作を繰り返すたびに不快感を覚えるはずだ。
ということは、トレーニングの方向性も「トータルで見たときに、最も快感を大きくできるように」すればよいのでは?と目算できる。
要するに、やればきちんと気持ち良くなれるようなトレーニングを徹底的に行うべきであり、
やればやるほど気持ち悪くなるようなトレーニングは努力感の割に結果が出ないorやればやるほどパフォーマンスが低下したり頭打ちになるのだから避けるべきである、
ということだ。
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