愛すべき素朴な日常会話「起伏の少ない対話に漂う安心感」
「そういえば、こんなことがあって」
とエピソードトークを次から次へと繰り広げる人がいた。
その人の印象は、どんな場所であろうと強烈なエピソードを耐えず話している人というもの。
本当にそのイメージしかない。
確かにどの話もオリジナリティにあふれており強烈。
聞き終わった人の反応は「本当にそんな体験されたんですか!?」「めっちゃ面白いですね!」というのがほとんど。
しかし僕はその人の話を聴きながら、痛々しいと感じていた。
話をする様が強迫的だったからだ。
「どんな状況でも面白いエピソードを話さないと人の注意を引けない」「人の注意を引けない自分には価値がない」という不安定さや不全感が見てとれた。
自分の生い立ちに関しても包み隠さず話す人だった。
かなりハードなもので、安心できる淡々とした日常はほとんどない。
関西という土地柄、面白い話ができる人の価値は高い。面白トークができる人間は人気ものになりやすい。
しかしこの人は、面白トークができるにもかかわらず、悲しいかな、あまり人から好かれていなかった。
それはきっと心から楽しんで面白トークを披露しているのではなく、半ば強制的にそれをしているしんどさが聞き手に伝わっていたからだろう。
40年以上、関西で暮らしているが、改めて特殊な土地柄だなと思う。
特に大阪人は、笑いへの矜持を持つ人が異常に多い。笑いのスキルのみで暮らしていけるお笑い芸人に対して、なぜか「あいつより俺の方がおもろい」と本気を思い込める、視野の狭い主観的な人間が少なくないのも、また大阪だ。
ある種の笑いのストイックさがあるのが大阪という土地の環境だが、俺の方がおもろいで合戦になった日常会話は地獄だ。そういうときはいの一番に、その場を離れるようにしている。
僕は昇華された笑いのコンテンツが好きで、日常では淡々とした会話を好む。
起伏は少ないものの、安心感のある会話ができる人の存在は重要だ。
何気ないことに共感し、相手の話に耳を傾ける。
こういう人たちの共通点は、相手への関心と敬意があることだ。
興味が目の前の会話している人間へ、しっかり向いているので安心して話せる。話を奪い取ろうとしないし、遮ることもない。
世の中は競争に満ちている。
なにも日常会話でまで、競り合う必要はないだろう。
そんなことを感じながら、ボソボソと淡々と起伏のない会話を今日も続けている。