「変人認定」されやすい少数派ほど「変わり」を「強み」と認識した瞬間、生きやすくなる話
これまで「変わってる」「変人ですね」と何度言われてきただろう。
僕は「ほんまによう言われるなあ」と、もうすっかり慣れてしまった。
昔から少数派だった。
小学校時代にみんながドッジボールという野蛮な遊びに精を出している中、ひとり昆虫採集をしているような子どもだった。
一応、協調性はあったので野球やドッジボールなどの球技にも参加していたが、昆虫採集の方が圧倒的に楽しかった記憶がある。
他人から「変わってる」と言われ続けて、それがコンプレックスになっている人がいるかもしれない。
「変わってる」に付随する言葉がある。
それは「普通」や「常識」だ。
「変わってる」を別の言葉に変換すると、「普通じゃない」「非常識」になる。
問題は誰の視点から見て、そう解釈されているか?
日本人は多数派でいることに安心を感じやすい。
遺伝子的に見ても、先天的に不安を感じやすい遺伝子を持っているので、これはもうしかたがないことかもしれない。
人に「変わってる」と言いたがる人ほど、自分は多数派、常識派という自負があるのだろう。
頭に入れておかなければいけないのは多数派の考え、常識的な考えが時代によって移ろうことだ。
僕が小学校の頃「ゲームばかりしてるとバカになる」と言われた。
僕もテレビゲームをしすぎて、親にACアダプターを隠された経験がある。
しかし今では、ゲーム実況やプロゲーマーという新時代の稼ぎ方が出現している。
働き方や価値観が大きく変化したのだ。
僕は世間でいわれる「変わってる人」「変わってること」に面白さを感じやすい。
自分にない物の見方や、やり方、没頭している趣味を持っている人を見ると「変わってる」と線引きするのではなく、「面白い」と興味を引かれる。
自分の主観的な判断で「変わっている」を用いると、その時点で境界線が引かれる。そうなると思考が停止しかねない。
「自分と価値観が異なり理解しがたいものだから、向き合わなくてもいい」という考えは、実にもったいない。
僕はわからないものにほど関心を抱く。
わからないから面白い。
わからないから知りたい。
わからないから教えてほしい。
自分の新しい扉を開いてくれるのは、未知のことばかり。
この頃、僕は「変わっている」と言われることを誉め言葉と解釈するようになった。
AIが台頭する時代は、これまでの常識が通用しなくなるだろう。
いよいよ、これまで「変わってる」と変人扱いされてきた人の出番かもしれない。
何かを極端に突き詰めていたり、偏りがある人は世間から「変わってる認定」されやすい人たちだ。
しかし、それこそがオリジナリティに他ならない。
これからの時代凹凸の少ない代替できるものは、次々とAIに取って代わられる。
実は変わっていることって大きな強みなのだ。
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