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HSPやINFJは「この一度きりの人生を生き切る!」と決意した瞬間「あなただけの人生」が幕開けする

昔からよく「変わった人」と言われてきた。

別に奇をてらって生きてきたわけではなく、自分では変わっているとも思っていない。

ただし人からそれだけ頻繁に「変わってる」と指摘されるということは、客観的に見て変人に属するのだろう。

この前、美容室で「あなたの普通という感覚が、世の中の普通とかけ離れているのだろう」と言われ「なるほど!」と膝を打った。

今のように多種多様な仕事がなかった時代、ほとんどの人間が会社勤めをするのが当たり前だった。

その頃、学校は会社に適応する人材を育成する場所だったのだろう。個性をぎゅぎゅっと鋳型に押し込み、枠組みの中で生きる人間を量産する。

表向きには「個性が大事」と言われているが、今でも学校のシステムや理念はそれほど変わらず、依然保守的なものかもしれない。

僕も学生時代は個性を削り「いわゆる普通」のフリをすることに対して「そういうもんだ」と疑問に思わなかった。

しかし成人後、現代社会の成り立ちなどを調べて「多様性を肯定しすぎると社会システムが崩れるので、角を削りなめらかな人間を作るよう体系化している」と気づいた。

僕は会社勤めが生涯で2年しかなく、実家に引きこもっていた期間もあるので、きっと鋳型に収まらなかった人間だ。

「人を傷つけなければ、自分の好きなように生きた方が楽しい」という考えを持っているので、今でも社会が定義した「普通という名の鋳型」から外れた生き方をしている。

それが社会性を持った人からすると、異質に映るのだろう。

よく「そんな生き方は間違っている!」「あなたの生き方は普通じゃない」と指摘されたが「自分に正直に生きて何が悪い」と意に介さなかった。

美容院で「普通の感覚がズレている」と指摘されたとき「確かにそうだが、ズレていると言われる感性を大事にして生きていこう」と思った。

「あの人はおかしい」「あの人は変だ」と人が言ったときに、僕はその人の思惑や無意識の意図を慎重に読み解くようにしている。

もし「自分の方が社会的に正しいとされる多数派のポジションにいるから、少数派を異端視してやろう」という安心を求めて言っているとしたら、実にくだらない。

なぜならそういう人ほど、自分の本心を見つめようとはしないし、自分と向かい合おうとしないからだ。

「一度でいいからアイデンティティが揺らいで知恵熱が出るくらい、己と徹頭徹尾、向き合ってみれば?」と思わなくもない。

自分の正しさを疑ったことがない人は、危険である。

正しさにこだわると窮屈になる。

自由に生きると、道を外れやすい。

しかし、それは枠組みの外に出ることでもある。

本当の個性とは、自分に忠実に生きた結果、出るものだ。

HSPやINFJで変わっている人認定されてきた人は、きっと多いだろう。

しかし「この自分で生き切る」と覚悟が決まった瞬間、あなたの変わっている部分は必ず強みとなる。

変わっているというのは、どこか尖りがあったり、際立ったところがあるということかもしれない。

日本はまだ村社会で「多数派の側に位置することで安心したい」という人が多い分、変わった人というのは爪弾きにされやすい。

多数派に属するだけで安心し「そのポジショニングが正義だ」と妄信する人ほど、本質に気づきづらい。

自分の本心と向き合い、己の頭を使って生きるというのは負荷がかかり続けるので楽ではない。

与えられた枠組みに安心しきって、雑務に追われ暮らしに疲弊し「全てを一旦疑う」という思考実験をするゆとりすら失うのは危険だ。

僕はいつでも「王様は裸だ」と気づける子どものような感性を持ちながら、この人生を全うしたい。

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