『バリ山行』松永K三蔵
わたしにしては珍しく、芥川賞作品を早めに読むことができた。とか言ってもう8月も終わるので、早いかどうかは微妙なところだけど。
『バリ山行』は山岳小説だ。山登りの描写はくどいと感じるほど細かく、用具などの専門用語も飛び交う。内容は全然違うけれど、読んでる感触は『ブラックボックス』に似ていると思った。
最近の芥川賞の中では珍しい直球な純文学だと感じた。人称をいじったり、現代を風刺したり、当事者性を問う文学。そういう文学が駄目かと言われるとそうではない。でも、万年に通用する設定の真っ直ぐを行く文学に飢えていたこともあって、直球がなぜか新鮮に感じた。新人作家でそういう純・純文学を書く人はだんだん減ってきているように感じていたので、『バリ山行』でそれを読めて嬉しかった。
しかし純・純文学をするときには懸念点もある。『バリ山行』で言うと、物語が動き始めるまでが長く退屈なところ。描写は良いけれど、好奇心をくすぐられない。つまり「先を読みたい」とならないのだ。起承転結が重要視されていない純文学とは言え、つまらない文章が続くと読むのを辞める読者もいるだろう。いくら動き始めてからの展開との対比と言われても、それって面白いのだろうか。純・純文学はこういうところが怖いと感じる。(まあ面白さが全てではないけどね。)
『バリ山行』は妻鹿さんと関わり始めてから物語が動く。主人公は会社の不穏な雰囲気に焦りを感じつつ、「バリ」を教えて欲しいと妻鹿さんに伝える。(バリとはバリエーションルートのことを指し、舗装された山道ではなく、藪の中やぐらつく岩など危険と言われる道なき道を進む山登りの方法を言うらしい。)
バリの下山中、主人公は死にかけてしまう。「遊び」のつもりだった登山が、急に命と関わることになってしまい、妻鹿さんに対して当たり散らかしてしまう。
わたしが不思議なのは、こんなにバリ(或いは妻鹿さん)を批判していた主人公がそのあと、妻鹿さんを目指すようになることだ。作中の言葉を使うと「本物の危機」に遭遇したはずなのに、なぜ妻鹿さんのように週末はバリをして、妻鹿さんの持っていた道具を真似していくのか。一体主人公のなかでどんな変化があったのだろう。
初め、主人公にとっての登山とは会社の人との親睦のためだった。それが肺炎になっている間に会社は上手く立て直した。もうクビを切られる心配はなくなって、自分がいない間も上手く仕事は回った。自分の知らないところで仕事が進められていた。
それに対してバリというのは、用意されていない道を進む、言わば自分の判断が全てで、自分が進まなければ前には行かない。「死んでしまうかもしれない」状況で、生活の不安は遠ざけられ、「本物の危機」と向き合う。刺激的の部分を好んだわけではなくて、自分の判断で行くということに魅力を感じたのかもしれない。
わたしは妻鹿さんという人物にとても魅力を感じた。仕事では怒るのに、山では危険な道をずんずん進むし、面倒見も良い。バリは一人が良いと言いながら主人公のことを連れて行ってくれた。それから主人公に話しかけるときの「〜だよ」とか「〜だね」と言った柔らかい語尾が好きだった。名前の響きもメガという、なんだかロボットのような感じも良いと思った。そんな人間性にどこかで主人公も惹かれていたのかもしれない。
おまけ
最後に装丁について触れたい。
まず表紙。これはきっと山登りアプリの山行記録だろう。左下の矢印ボタンがいいなあ。
こちらは見返し。深い緑は好きな色だから、なんとなく嬉しかった。きっと山の緑ですね。
最後はカバー裏。青のタータンチェックのマスキングテープ。これは読んだ人にはぐっとくるデザイン!