評論を書けるようになるには
これまでにnoteでいくつか書いてきた作品紹介の記事は「レビュー」というか「紹介」というか、立ち位置が曖昧で、「評論」であることから逃げている感じがして気になっていました。
クリエイターが信仰の対象になる一方で、批評家・評論家はその批判の対象になることが多く、「評論」はあまり憧れられるものではありません。とはいえ、できないよりはできるのがいいですから、評論を書けるようになったっていいじゃないかと思うわけです。なんかこう、習得すべき技術みたいなものもありそうですし。
と、そんなことを気にしていたところ、アニメ監督・演出家の山本寛さん、通称ヤマカンさんのブログが目に留まりました。
評論家は偉い?
このブログ記事には「評論家が偉い(とされる)理由」として「批評した相手に貢献したから」とあります。続きを引用すると……
はい、作り手の立場としてはそうですよね。
とはいえ視聴者としても、莫大な宣伝費用をかけていたり、過去のブランドにすがった作品以外の、うっかり見逃しそうな良作を発掘してもらえたら嬉しいものです。
そういう意味では、もうみんな知ってる大ヒット作を「やはりすばらしい」みたいに語るのも「偉くない評論」と考えていいのでしょうか?
評論の価値はどこにある?
記事には、さらに次のようにあります。
うがった見方をすれば、広告・宣伝の延長であるかのように述べているようにも思えますが、それは読み違いでしょう。省略されていますが、大切なのは評論を読んで実際に劇場へ向かうことにしたお客さんが「この作品を観て良かった」と思えることです。
でも、そうすると評論に価値が見い出されるのは「評論を読んでいなかったら観なかった作品」について語ったときに限られそうですし、そのうえで観た作品に満足することが必要です。そして、さらに「評論を読んだからこそ楽しめた」と思える部分があればベターではないでしょうか。
ネガティブな評論に価値はあるか
一方、アニメでも映画でも昨今は「サブスク」による配信で観られる作品が膨大にありますから、「あわないものを観て時間を無駄にしたくない」というニーズもあります。とはいえそれを言い訳にすると、ただの批判・悪口の垂れ流しを肯定することになってしまうので注意が必要そうです。
評論の存在意義として大切なのは、"評論を読んだから"と思ってもらえるかどうかでしょう。でも、作品を観ずに「観なくてよかった、評論のおかげだ」と思うことは(基本的には)ありません。楽しめない作品を知る機会はたしかに有益ですが、積極的に評論する意味はなさそうに思えます。
もちろん、いわゆる「アンチ」の肥しとしてなら別ですけどね。
そして実践へ
そんなこんなを考えながら書いてみたのが、
これでした。
自己評価は「満足」なんですが、ぼくはたいていそうなんで意味がないですね。
気になったのは、作中で背景として多くは語られない部分や見どころを「事前に解説」するように書いたため、逆に「じゃあ観ない」と感じた人も少なくないと思われることです。
「観ない人」を生み出すことに評論としての価値を見い出すことはできないのですが、はやり広告・宣伝とは違うのですから観るべきではない人に観せようとしてはいけません。
過剰にほめたり、逆に悪口を言うわけではなく、そしてネタバレをするでもなく、評論を読んだ人が自分に合う・合わないを判断できることが、評論には求められる気がします。
これはポジティブかネガティブかの問題ではないので、判断を委ねない「みんな観るべき」と「みんな観るな」は評論としては等しく無価値だと言えそうです。
こうして言葉にしてしまうと、かなり難しい! のですが今後も勉強しながら、どなたかの役に立つ評論を書けるようになっていきたいなと思います。
余談
ところで今回ブログから引用させていただいたヤマカンさん、SNSなどでめちゃくちゃ嫌われているというか批判を浴びているところばかり見かけるのはなんなんでしょう。ブログの他の記事を見ると、どうも考え方のあわない人たちとの論争を繰り返しているという感じではあるようなのですが。
守備範囲の違いのせいか、ぼくはヤマカンさんの携わった作品をほぼ観たことがないのですが、なんだかおもしろそうな方なので今度作品を観てみようと思います。
あ、それで評論を書いてみるのがいいですね。そうしよう。
(つづく?)
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