拝志川 あまき やさしき ささやきに~ 矢内原忠雄の原風景
今治平野を故郷とする人々にとり,「ふるさとの川」を問われれば,蒼社川,頓田川を思い浮かべる方が多いのではなかろうか。
母校の校歌として,12年にわたりその名称を唱えた経験を有する方も少なくないのかもしれない。
ふるさとの川が,流域に所在する学校においてどのように歌われているのか。換言すれば,どのように形容されているのであろうか。
例えば,岐阜県に源を発し,富山県内を北流して富山湾へと注ぐ神通川(流路延長120㎞)の流域にある公立の小中学校21校について,開校年と出来事,形容している言葉について調査し,神通川の歌われ方を分析した「神通川流域内の公立小学校・中学校の校歌における神通川の姿」(手計太一 他)。
明治から昭和初期までは,「雄々しく」「たくましく」「きたえよ」のような力強い歌詞が,第二次世界大戦後は「おおらかに」「静かなり」「ささやいている」など,優しい歌詞が歌われており,校歌には特に教育的な時代背景が強く反映されていると推察している。
さて,流路延長367㎞と日本最長を誇る信濃川ともなれば,歌われている学校数もいかばかりであろうか。
中流部に位置し信濃川が蛇行の美を呈する小千谷市に生を享けた詩人にして英文学者の元慶応義塾大学文学部長 西脇順三郎(1894年~1982年)もまた,母校 旧制新潟県立小千谷中学校の系譜を継ぐ小千谷高等学校の校歌作詞にあたり,ふるさとの川から始めている。
「若き日うれし 旅心」(同校歌)にいざなわれて故郷を去り,晩年に帰来した「永劫の旅人」(旅人かへらず)にとっての原風景。それは滔々たる大河 信濃川にとどまらない。
西脇生誕の1年程前に今治平野に生まれた矢内原忠雄(1893年~1961年)も,幼くして故郷を離れたがゆえにか,ふるさとの川に寄せる思いを日誌などに詳細に記している。
富田村松木(現 今治市松木)出身の経済学者,元東京大学総長にして無教会派キリスト教伝道者の矢内原は,地元の河南高等小学校を経て神戸に渡り,旧制兵庫県立神戸中学校(後の第一神戸中学校)在学中の夏期休暇日誌(明治42年7月~9月)に,故郷での日々を綴っている。
矢内原は日誌などに,帰郷時の活動を詳細に記しており,特に散策,訪問した先の地名,名所などを明記していて,旺盛に今治平野を駆け回っていたことが窺える。このことについては,機会を改めて足跡を追ってみたい。
故郷を流れる二大河川たる蒼社の長堤,頓田川縁に休暇の日々を謳歌した矢内原も,慕いし母を失った時の悲哀に際しては,ふるさとの小川になぞらえて心情を詠んでいる。
西脇と矢内原。早々に故郷を離れ,戦前と戦後の同時代を共に生きた二人にとって,原風景は,力強さの象徴としての信濃川,蒼社川よりも,優しさの表れとしての茶郷川,拝志川にあるのかもしれない。