5時51分 松山発 宇和島行~もうひとつの伊予灘ものがたり
霧島,雲仙とともに,日本初の国立公園として “瀬戸内海” が指定されたのは,およそ90年前の1934年(昭和9年)3月。ただし,指定区域は備讃瀬戸を中心とする小豆島から鞆の浦に至る区域で,香川県,岡山県及び広島県の陸域と海域に限られていた(第一次指定)。
その後1956年(昭和31年)5月の第三次指定により,海域が紀淡海峡から関門海峡まで拡張され,現在の瀬戸内海国立公園の輪郭を呈するようになった。
90万haを超える我が国最大の国立公園は,1府10県にまたがっている。
法律上の定義はさておき,瀬戸内海の範囲を “瀬戸(海峡)にかこまれた内海” と捉え,紀淡海峡(由良瀬戸),鳴門海峡,関門海峡(早鞆はやとも瀬戸),豊予海峡(速吸はやすい瀬戸)にかこまれた海域(西田正憲「瀬戸内海の発見」)とすることは,語義とイメージが重なりあうのではなかろうか。
この “瀬戸内海” と称する海域に関する認識の成り立ちについて,西田正憲 氏は,次の通り述べている。
東西およそ450km,南北15~55km,面積23,203㎢の瀬戸内海を構成する海域のなかで,4,009㎢と最も大きい海域が伊予灘。
愛媛県,山口県及び大分県に囲まれたこの海域の水面下で,未だ国立公園の指定を受ける前の1941年(昭和16年)から終戦まで,それぞれの “来るべき日” に備えて訓練を積んでいた若きサブマリナー達がいた。
伊予灘の南端 佐田岬半島。
全長40km,最大幅6.4km,最小幅0.8kmの日本一細長い半島のほぼ中間に位置する三机湾。
この人目につきにくい静かな海は,オアフ島真珠湾に地形が類似していることなどから,1941年(昭和16年)3月から,22名の特殊潜航艇乗員の訓練地となった。
この中から10名が,同年12月8日に真珠湾奇襲攻撃に出動し,9名は再びそれぞれの故郷の土を踏むことがなかった。
最年長29歳の佐々木直吉 一曹(艇付)は島根県出身。
最年少の広尾彰 少尉(艇長)は佐賀県出身の22歳で,前年に海軍兵学校を卒業したばかりだった。
まだ甘え足りてはいなかったであろう広尾少尉は,次の言葉を残して出撃していった。
当初,山本五十六 連合艦隊司令長官は,奇襲攻撃後の特殊潜航艇の収容見込みがないとして,用法を却下した。
更に収容方法の研究を重ねるも,山本長官は確実性がないとして,これも肯んじなかった。
黒島亀人 連合艦隊先任参謀は,収容方法と生還可能性を具して,山本長官へ具申。
広島出身で自らも1942年(昭和17年)海軍予備学生として予備少尉に任官した 阿川弘之は,予備学生時代の青春像を “春の城” に描いている。
戦地の耕二へ宛て,智恵子からの最後となる便りが届く。
耕二は戦地で生き延び,智恵子は広島駅裏の練兵場で8月6日午前8時15分を迎える。
伊予灘の静かな漁村にもサブマリナー達の淡い青春があった。
ある遺族宛には,三机でのロマンスを綴った信書が届き,軍神である前にひとりの青年としての側面を知ることになる。
1965年(昭和40年)8月 九軍神の遺族たちが集まり丘の上から夕陽に映える三机湾の海の色を心にとどめた。
遺族訪問の1年後 “大東亜戦争九軍神慰霊碑” が建立された。(牛島秀彦「九軍神は語らず」)
三机から鎮守府 呉に向けて針路をとる。
青島,由利島を経て,多島美を彩る忽那諸島へ。標高282m “伊予富士” が象徴的な興居島を過ぎると安芸灘に至る。
三机とともに伊予灘の境に位置するこの島にも,サブマリナー達の慰霊碑がたたずむ。“伊號第三拾三潜水艦慰霊碑”
1942年(昭和17年)6月 神戸三菱造船所で竣工された基準排水量2,198t,全長108.7mの 伊号第三三潜水艦は,2回の沈没事故に遭遇する。
同艦の数奇な運命については,吉村昭 “総員起シ” に詳述。よって以下同作品に基づき記述する。
呉を出港し,ソロモン諸島方面の作戦に従事。整備,補給のため入港したトラック島泊地で,同年9月に1回目の沈没事故にみまわれる。
修理作業中に艦内に海水が侵入して艦尾から水深36mの海底に。殉職者数33名。
引き揚げ後,呉海軍工廠での約1年2カ月に及ぶ修理を経て,1944年(昭和19年)5月に連合艦隊へ引き渡される。
生存者のうち1名は,海軍兵学校卒業(第72期)間もない22歳の小西愛明 少尉。
伊予灘のほぼ中間,由利島と青島の間の水深約60mの海底に,同艦は9年間の眠りにつくことになる。沈没事故の原因は,艦内に残された複数の遺書によって明確となる。
事故発生から10時間経過後の艦内の様相も書き留められていた。
小西少尉もまた最期を覚悟していた。
沈没地点から興居島御手洗海岸の沖まで,海面下を曳航されてきた伊号第三三潜水艦は,1953年(昭和28年)6月21日午前8時 艦首部が浮上し,9年ぶりに風光をあびる。
同日正午近くには愛媛県知事の参列の下,簡素な慰霊祭が行われた。
小西愛明ともう一人の生存者 岡田賢一は,二十三回忌となる1966年(昭和41年)6月14日御手洗海岸において遺族とともに慰霊祭を開催。由利島と青島との間、伊予灘の海面に花束を投じた。
高松駅から松山駅を経て宇和島駅に至る予讃線。
郡中港の所在する愛媛県伊予市の向井原駅から伊予長浜駅までの間は,伊予灘沿いに列車が走行することから “愛ある伊予灘線”とも称されている。
海面を間近に望む下灘駅は,茜色の夕陽に染まる光景が旅情を誘い,時間帯によっては,遠方からの来訪者でにぎわいをみせる。
観光列車 “伊予灘ものがたり” が,松山と伊予大洲・八幡浜の間、主に週末に4便運行されており,アテンダントのもてなしにより,すこし贅沢に特別な時間と空間を過ごすこともできる。
真珠湾奇襲攻撃10名の出撃者のうち唯一の生存者についてもふれなければならない。
山崎豊子の遺作 “約束の海” は,広尾彰少尉と海兵同期(第68期)酒巻和男 少尉(徳島県出身)の生き方をモチーフとした長編小説。第1部で未完となったものの,山崎の構想をもとに,編集スタッフが構成した第2部以降では,三机湾で,真珠湾生還者の父親と潜水艦乗組自衛官の主人公が交わす “約束” が,ストーリーを仕立てていく。
5時51分 松山発 宇和島行。
高野川駅から喜多灘駅の間を,由利島と青島の島影にゆっくりとよりそい,早朝の静穏な伊予灘の風光を映す、よそゆきの顔をしない “鈍行列車” は,伊予長浜駅から “約束の海” をはなれ,肱川を河口から遡行していく。
ひと駅ごとに伊予大洲に通学する学生服の姿が車内をうめていく。
若桜たちの青春の日々を乗せて。
※列車時刻、運行本数は、2024年4月1日現在