養生訓 巻第七 用薬 鳳凰堂流解釈60
原文を現代文に改変
腎は水を主どる、五臓六腑の精をうけてをさむ故、五臓盛んなれば腎水盛んなり。
腎の蔵ひとつに精あるに非ず。然れば腎を補わんとて、専ら腎藥を用ゆべからず。
腎は下部にあって五臓六腑の根とす。腎氣虚すれば一身の根本衰ろう。
故に養生の道は腎氣をよく保つべし。腎氣亡びては生命を保ちがたし。精氣をおしまずして、藥治と食治とを以て、腎を補わんとするは末なり。しるしなかるべし。
鳳凰堂流意訳
腎は水を主(つかさ)どり、五臓六腑の精を受けて治めている為、五臓が盛んに働いていれば腎水も盛んに働く。
精気は腎だけにあるのではない。
そう考えると、腎を補う為に補腎の薬だけを使うのは良くない。
腎は下部にあり五臓六腑の根となるもの。
腎氣が不足すれば全身の根本が衰える。
従って養生の道は腎氣をよく保つこと。
腎氣が亡びると生命を保ちがたい。
精氣の耗散を考えず、薬治と食治で腎を補おうとするのは最後である。すぐにやつまてと効果は低い。
鳳凰堂流解釈
鳳凰堂は端的に、これはこうだと言う事にはあまり寛容ではありません。
なぜなら、情報を切り取って表現してしまうことになり、他の人の思考、行動の可能性を狭めてしまうからです。
但し、初学者、初心者等には大切な段階でもあります。
基本、基準が分かっていないと暗中模索を続け、疲れ、放棄してしまいがちだからです。
腎気は心気と相対し、生命を生長化収蔵の輪廻を巡らせます。
腎気を身体、運動とし、心気を心、意識とすると、他の蔵は飲食で養い、薬で治療する。
推拿や鍼は身体と心と言うレベルから他の蔵へアクセスし、薬は他の蔵から身体と心へアクセスする事で治療する。
鳳凰堂が今言葉で表現できるのはこのくらいです。