アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』の書評執筆メモを公開します

こんにちは、谷川といいます。最近、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』という本を勁草書房から刊行しました。職業哲学者です。

この本については、noteでもいくつかの紹介記事を書きました。


1.アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

さて、今回の記事は、ウェブメディア「まなびとき」(株式会社キャスタリアの自社メディア)での書評連載で私が扱った、アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(ちくま学芸文庫)のレビューをしたときの執筆メモです。

実際に書かれた記事はこれです。

上から順に読む形で書かれています。


2.用語整理と問題設定

では早速メモに移ります。

用語を導入する必要(本文では曖昧)。アイデンティティ。本書では、他者との関係において自己を提示するとき、前景に押し出される帰属先、くらいの意味。

アイデンティティという鍵概念が説明されていないことに戸惑ったようです。しかし、アイデンティティという言葉の中で出てくる言葉も明確に定義しておく必要がありそうだと、以下のように書き添えています。

属性。特定の帰属先に結びつくと考えられる徳性や来歴のこと。/帰属先。準拠集団?

こうした用語整理をした上で、書評の問題設定とすべく、

人がコモディティ化する(交換可能な)世界 → そうであればこそ一層交換しえない宿命的なつながりや承認、やりがいを持ち出すことが魅力的に見える

これは、「そこにいる」のが誰でもいいが、たまたまその人であるという近代社会のあり方が、アイデンティティを宿命論的な含みがあるものとして前景化させている、みたいな問題背景のことを言おうとしている感じです。


3.一番攻撃されるものを自分の姿だと思いがち

ほかはかなり引用に基づいています。

アイデンティティと「正真正銘の」という見方(p.21)/共通点は対立の回避をもたらさない。(p.22)/自分のアイデンティティは敵のアイデンティティを反映している。鏡のような関係。(p.23)

この辺りはそれほど使っていません。ただ、アイデンティティが「本当の自分」への欲望と結びつきがちである、というような話は書いたかと思います。

帰属全体をみれば、人は他の人とも違う、みたいな話(p.28) → 著者は「違い」「特殊性」で勝負している。これは悪手。特殊でないように思われる人にアイデンティティがないということになるし、アイデンティティに度合いがあるかのようだけど、そういう議論じゃないのでは? むしろ、固有性や単独性の問題として捉えた方がよさそうに思える。

これはばっちり使った論点ですね。でも、うまく書評では表現できていない気がします。単なる差異(人とこんなに違う!!)と、「あなたがあなたである所以」というのは、全然違う話ですよね。前者は、どれほど異質であるかの比較・対照が念頭にあり、異質さ競争のようなものが含意されてしまうが、後者はただその人がその人であるということの問題であり、必ずしも「差異」の問題にならない。

差異については、以下のようなメモもあります。

帰属集団内の差異を認識する。多様性。(pp.30-1) ~人、~教徒、~家の人 etc.
通常のアイデンティティは人々の差異を消して糾合しようとする。特に他者のアイデンティティをそうして規定するとき危うさがある。(pp.31-2)← 一番攻撃にさらされるものを自分の姿だと考えがち(p.36)

「一番攻撃に晒されるものを自分の姿だと考えがち」!! なんかすごいいい言葉ですね。人はたくさんの要素や側面を持っているのに、注目がさしあたり集まるところ、自分が気にしてしまう部分を過大視してしまうところがある。示唆的な言葉だと思います。


4.アイデンティティは党派と排除の中で作られる

ある属性の経験のされ方は、文化によって違う(p.33)/カテゴライズのされ方すら違う(pp.33-4)
「アイデンティティの学習」(p.35)。これ大事そう。社会化のプロセスにおいてとらえられたアイデンティティ。

これらは、言葉は違うけれど同じことを言っていますね。文化や社会の強い影響下で、個々人のアイデンティティは構成されていく、と。

どうしてそう言えるのかを、やや具体的に示すメモが以下です。

グループへの帰属を決めるものは、他者の影響、仲間にしたがる人、排除しようとする人など(pp.34-5)

下記の引用なんかは、この最後の部分を印象的に言い換えるものだと言えそうです。

人は恐怖を抱くと、危険そのものより、恐怖そのものが優先される。(p.39)/正当防衛のロジック(p.43)。ネオコン的。


5.「皮膚に描かれた模様一つに触れられるだけで、その人のすべてが震える」

そして、本書を読んでいて印象が変わったのは、以下の一節に出会ってからでした。

アイデンティティはパッチワークではなく、皮膚に描かれた模様一つに触れられるだけで、その人のすべてが震える(p.36)。インターセクショナリティとかと重ねると深みがありそう。

移民で黒人でセクシャルマイノリティであるという多重にマイノリティの属性を持つ人は、単にセクシャルマイノリティであるだけの人よりも「一層しんどい」のでしょうか。これに対する唯一の答え方は、「しんどさは比べるものではないのでは?」という質問を返すことだと思います。

上の一節は、アイデンティティという心の柔らかいところに、その一部に触れさえすれば、人格全体を揺さぶってしまうのであって、アイデンティティとはそもそもそういうものなのだ、と。これはかなりいい視点だと思いました。

「彼らも問題によっては間違っているわけではないのかも」(p.41)/「敬意」(p.37)→ 是々非々でみないとダメだという批判は、喧嘩両成敗みたいになりかねなくて危うい。マイノリティが常に理解あるマイノリティにならなければならないという呼びかけとして読めてしまう。変わるべきはマジョリティの方のはず。cf. 『ヒップホップ・レザレクション』の道徳的高潔さをめぐる対立。

あとは、些末なメモ。

アイデンティティ1.0(p.41)/アイデンティティ2.0(p.47)


6.みなが自分をマイノリティだとみなす時代

使っていないけど、大事な論点もあげておきます。

テクストとまなざしの変化(p.63)/社会はよくも変わるし、悪くも変わる。(宗教などだけでなく)世俗的アイデンティティも、人を暴力に駆り立てる(p.65)。
ナショナリズムは問題を解決するのではなく、犯人とされる存在を見つけ出す装置になっている。(pp.98-9)

これむっちゃ大事じゃないですか。ナショナリズムという世俗的な熱狂は、問題の犯人を作り出す役割を果たすものだと、アミン・マアルーフは指摘する。

「心性の発展」(p.77)

この下に「習慣的な物言い」と、別のページをメモして消してあります。これは何に使う予定だったのかな。どうなんやろ。

精神的なものへの欲求が帰属の欲求と切り離されるべき(p.114)/特定の帰属先を他者に押し付け、他者を帰属先で判断してしまう(pp.108-9)

いわゆるステレオタイプですね。ステレオタイプは、何かを明らかにするツールでも、仮説でもなく、それであると決めうちする態度、結論ありきの見方にほかなりません。

併せて、人間の共感の偏りについて書いています。

人間→でこぼこの共同性。海の向こう側や地球の裏側の人間には「同じ」であると感じにくいにもかかわらず、一緒に暮らす動物とは容易く共同性を育む。

続けて、『ヒルビリー・エレジー』や『壁の向こうの住人たち』を連想させる論点。

「帰属感情」(p.113)――みながマイノリティだと感じている世界。疎外の感覚。(p.186)


そんな感じで書かれた書評でした。今ならもっとうまく書けるなぁという気もするのですが、忙しいときなりにがんばって書いた感じもするし、よければせひ読んでみてください。

アイデンティティ関連の記事としては、以下のものもあります。


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