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お守りを持っている
たまにふと、読み返したくなる本、どうしてか心に残っている文章が、誰にだって一つはあると思う。
私にもいくつかそれはあって、文章とともにその情景がまるで自分の思い出のように脳裏に浮かんでくる。
そうすると私はどうしようもなくそこに行きたくなって、その瞬間と、また出会いたくなって、本を開く。
民俗学者・宮本常一氏の『ふるさとの生活』という本の中に「ほろびた村」という章がある。そこに、宮本が岐阜県と滋賀県の境の峠に昔あったという「八草」という村を訪ねてゆく短いお話が載っている。
深い山の中を、リュックを担ぎゲートルを履いた宮本がただひたすらに、すでに消滅してしまった村を目指して延々と歩いていく。
途中で焼畑をしてる人に出会ったり、山の中の農家のおばあさんに「もの好きにもほどある」と笑われたりする。
しばらく行くと、心配していた雨が降ってきた。道端の小さい小屋の中で雨宿りがてら寝ていると、ブト(ブヨ)に喰われて痒みで目を覚ます。
そんなエピソードと一緒に、「ブトくすべ」というわら、草、古い布切れを一緒にして針金で纏めたものに、火をつけて煙で燻す虫除けの説明も宮本手描きの絵と共に書いてある。
(この本は、『ふるさとに関する知識や理解を深めることが子どもの人間形成にとっていかに大切であるか』を主張した宮本が、戦中戦後の十年間、日本各地を歩いて集めた人々の暮らしの記録を子どもたちに伝えるために書かれたものなのです。)
他の宮本常一の本も大好きなのだが(名著『忘れられた日本人』は素晴らしい作品です)、なぜかこの本のこの段が私は好きなのだ。なんでか時折ふっと読みたくなる。
いつも読み返す好きな場面を書きたい。
「雨はまだ降っていましたが、さむくはあるし、時計を見るともうひるなので、べんとうをたべて元気を出し、雨のなかをまたあるきだしました。もと村のあったと思われるあたりまでくると、草は背たけほどにのび、その上に、雨が白々として向こうが見えないほどに降って、すまいのあとなどさがして見ることもできません。それでもしばらくは、村のあったと思われるほうへ草をおしわけてすすんでゆきましたが、こういう山のなかでは、家がかたまってあったわけではありません。あちらに一軒、こちらに一軒とあったのですから、すまいのあと一つをさがしあてるにも、たやすいことではありません。草のなかではかさもさせなくなって、あたまからずぶぬれになり、とうとうどうすることもできなくなり、引きかえして峠道をのぼってゆきました。見おろす谷は一面の草です。私は何かしら涙の出てくるのをおぼえました。」
なんともさみしい風景だ。
私は、空の上から、
人気のないただ草ばかりが生い茂る荒野に、雨に濡れた宮本が呆然と立ち尽くす姿を見る。
はたまた、彼のすぐ近くで服に擦れる草の匂いを嗅ぎ、鼻頭を流れる雨粒を感じる。
ソワソワするような、懐かしいような不思議な感じがする。
他の人にとってはなんてことはないものでもなぜか心を掴むもの。
私は文章や言葉が好きだから、私にとっては本だけど、それが絵であったり音楽であったりもするだろう。
そういうものの一つ二つが、慌ただしい毎日に埋没する感性を揺り動かして、息を吸うことを思い出させてくれる。
私はそういうものをお守りのように持っていたい。
そうして、ときどきポケットから取り出して日の光を当てるのだ。