たまにふと、読み返したくなる本、どうしてか心に残っている文章が、誰にだって一つはあると思う。 私にもいくつかそれはあって、文章とともにその情景がまるで自分の思い出のように脳裏に浮かんでくる。 そうすると私はどうしようもなくそこに行きたくなって、その瞬間と、また出会いたくなって、本を開く。 民俗学者・宮本常一氏の『ふるさとの生活』という本の中に「ほろびた村」という章がある。そこに、宮本が岐阜県と滋賀県の境の峠に昔あったという「八草」という村を訪ねてゆく短いお話が載っている。
昔よく聞いていた歌を久しぶりに聴いたらひとりでに涙がこぼれた。 あの頃から失敗ばかりの自分を許せる日が来るのかなぁ。 いまの私には誇れるものも何もなくて、そんな自分が情けなくて、辛くなる。 でも、そう思う時、結局私は、人にどう思われたいか、で人生の価値を決めている。 そんな自分に今までずっと苦しんできた。 だけど、そうではないと、最近ちゃんと思えるようになってきた。 そのことを自分の中で深めたい。 自分というものを、承認欲求に委ねない。 はっきり言って、それは崖
今さらながら、明けましておめでとうございます。 新年早々の地震。被災地の皆様に心よりお見舞い申し上げます。 2024年という年をどんな年にしたいか考えたとき、ふとある人の言葉が思い浮かんだ。 「人間のためでも、誰のためでもなく、それ自身の存在のために自然が息づいている。その当たり前を知ることが、いつも驚きだった」 大好きな星野道夫さんの言葉。 風に揺れる木を見てるといつも不思議な気持ちになる。ただ生きているから生きているという圧倒的事実にいつも驚かされる。 願わく
「混沌(こんとん)、七竅(しちきょう)に死す」 北の国の儵王(しゅくおう)と南の国の忽王(こつおう)が、その中央の国の渾沌王に会いに行ったとき、大変手厚いもてなしを受けた。渾沌王は目も鼻も口もなかったので、儵王と忽王はもてなしのお礼にと一つずつ穴を開けてあげることにした。 一日一穴ずつで、目二つ、耳二つ、鼻二つ、口一つ開け、七日目に渾沌王は死んでしまった。 渾沌とは「混沌(カオス)」のことで、人間の知覚では掴むことのできない命の働きそのものを表している。混沌としたままに調
物心ついたときから家には猫がいた。いちばん最初に飼ったミーヤという猫はとても利口でいつもツンとすましていた。わたしが学校に行っている間もミーヤは家にいて、そして長い時間を母と過ごしていた。私ら子供が呼んでも振り向かないのに母が呼ぶと必ず振り向くのが癪で、何度も大声で呼びかけては逃げられていた。あとで、猫は大きな音が苦手で猫に好かれたければなるたけ静かにしているが良いことを知った。 母はある時、傍らで眠るミーヤを眺めながら「猫から学ぶことは多いのよ」と言った。何もしない猫から