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25才、無職、養生の旅

旅の原体験として家族旅行を挙げるのは面白みに欠けるだろうか。

後回しにしたツケが回り、自由研究の題材に悩む8月末。あまり遠出をしない我が家が重い腰を上げた。小学4年のことである。怠けに精を出す日々に、まさに棚からぼたもち、盛夏の贈り物だった。

母ゆかりの土地、福島県会津・磐梯地方を巡る3日間ほどの小旅行。些か渋いチョイスだが、今なお帰省という経験がない私にとって、縁ある土地へ赴くというだけで特別だった。ましてや新幹線での移動となると一大事である。私は早速旅のしおり作りに取り掛かり、出発の日を心待ちにした。

で、肝心の旅の記憶だが自信がない。エンジョイしたに違いないのだ。でも、覚えているのは記憶じゃなくて体験が1つ。裏を返せば、具体的な記憶と引き換えに、忘れ難い体験をしたとも言えるだろう。

我々が宿泊したのは裏磐梯のリゾートホテルだった。人が造った美しく素敵なものは全てテーマパークだと思っていた当時、例外なく「ここもだ」と思った。まあ、どう頭を捻っても「スリッパだとふわふわの絨毯を歩きにくい」「天井が高いから信じられないくらい音が響く」くらいしか思い出せない。麻の薄いきれでも掛けられたみたいにぼやけていて、意匠に富んだ内装や美しい眺望は聞き及ぶのみだ。

今回宿泊したホテルでの1枚

チェックインが済むまで妹と館内を探検したような気もするし、ロビーに並ぶふかふか椅子を楽しんだような気もする。三つ子の魂百までと言うのだし、今とさして変わらない過ごし方をしていたのだろう。無事手続きを終えた一行は、4人で乗るには忍びない大層立派なエレベーターに乗り込んだ。

 扉が開いて、落ち着いた色調の仄暗い空間が我々を出迎えた。朧げながら思い浮かぶのは、ピンク色の褪せた絨毯とクリーム色の壁。長く広い廊下だった。

先陣切って「いざっ」と足を踏み出し、同時にすうっと息を吸った時、私の中に清々しさが入り込んできた。その空気。似た味を知らなかった。どことなく夏のプールの時間に嗅ぐような塩っぽさ。まだ新品に近かった鼻は、それを良い匂いだと判断した。

慣れない絨毯を夢中で進んだ。片足出して、息吸って、腕を振って、息吐いて。吸い込むごとに体を巡る知らない匂いは、密かに育てた蟠りにまで辿り着くと、根こそぎ吹き飛ばす勢いで息巻いた。クラスのこと、友人のこと、テストのこと、嫌な思いをみんな押し出して、吐いた息と一緒に消えた。

全身の酸素が入れ替わった頃、やっと見知らぬ土地にきたという実感が湧いてきたのだった。洗われるような気持ちの良い匂い、それだけが強く残っている。

今でも我が家は出不精な方だが、家族旅行だけは細々と続いている。1年に1度、9月の祭りに合わせた会津への旅だ。震災やコロナで断念した年もあったが、状況が許せば必ず出向く。毎年楽しみにしている大切な行事の一つである。

そして今年は例外中の例外として、9月を待たずに急遽会津・猪苗代周辺を訪れた。7月、気ままな平日旅である。私は梅雨の時期から会社を休んでいた。肌に合わない環境の中で溜め続けたストレスが限界に達し、精神的に参ってしまったのだ。退職を前提とした休みだったから、来るその時を絶望の思いで過ごしていた。

見かねた父が「どうせ暇なんだから旅にでも出たら」と言った。折角なんだから、と背中を押され今回の計画が持ち上がったのだった。

当初、我々は日本海沿いの漁村へ行くつもりで準備をしていた。それが出発前夜になって、突如計画の見直しを余儀なくされた。呆気ないものである。もうそこからは大童だ。母と二人で知恵を絞り、どうにかして次の目的地を決めた。あまり出くわさない事態でお互い不安だったのだろう。行き慣れた安心できる場所を選んだ。

ホームもがらがら、平日っていいな

土壇場で予約した宿は、以前一度利用したことのあるリゾートホテルだった。例に漏れず記憶力の乏しさに呆れるところではあったが、到着してみると琴線に触れる光景やアイテムが幾つかあった。まあ、安直な流れではある。私はそこで、例の匂いと再会したのである。

14階でエレベーターを降り一歩を踏み出した途端、鼻の穴を抜けた塩っぽくて清々しい香り。ご無沙汰だったからこそ、敏感に嗅ぎ分けのだろう、思わず「あの匂い」と口に出していた。忘れもしないあの瞬間まで、時を遡ったかのような感覚。胸がいっぱいになった。

 高原の涼やかな空気と、廊下を通るたびに私を包むあの匂い。日に2度の温泉も相まって、みるみる内に元気になった。お肌なんてつるつるである。そしてなんの因果か、私は退職日を猪苗代湖を望むホテルの一室で迎えたのだった。

一番のお天気だった2日目、午後

帰ったら社会復帰だ!と意気込んで戻ってきたものの、そう上手くはいかない。気付けばあんなに漲っていた活力も萎んでしまった。でも今回の記憶はそう簡単には揺らがない。どこかにあの匂いを探す日々を送っている。

以上、偶然と縁に導かれた旅の記録である。

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