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カラダの言い訳。私の言い分。
考えがまとまらないことを見守っている。何かの筋道をつけることにはきっとワナがあると疑っている。どうしていいかわからなくなってしまい、不安で、オロオロするし、小さい時から今までの、言われてきたこと、耳に残してきたことを見つけ次第さわっていじくり出したりする。そうかぁそういう訳だったんだな、なるほどと得心する。それでなんとなく落ち着いて、でも落ち着いたところがまた不安になってを繰り返す。いい加減飽きて
もっとみる認められたいより、認めたくない、がわたしには大事。〜SNSでのひねくれ自戒〜
うまく言えないことを、そのまま、書きつけようと思う。時間がないからではなく、ほんとうにうまく言えないから。
ここに加えてわたしはFacebookをやっていて、たくさんの、いいね、をつけている記事を見るのだが、どうも、主張している人の意識、つまりなにかを発信したいという欲求とは別に、いいね!と賛同する人がいて、そのいいね!という欲求をひたすら集める仕掛けになっているような気がして、なんだか妙だと思
忘備録的な考察。〜躁鬱のわたしなりの仕組みと屁のつっぱり的な対処〜
わたしは躁鬱病という診断がついていて、それとの付き合いのなかで、いわば生活の知恵のように、感情の起伏を観察する癖がついている。喜怒哀楽という大雑把なものではなく、いま気持ちがもどんな表情をしているのか、というくらいの、いわば、気分のご機嫌、を伺うみたいなものに、あえて例えるなら近いかもしれない。
そんな中で、さまざまな表情を見せる気分の移り変わりが、一体どんなものからの影響を受けているのか、注意
言い訳の、中途半端な状態のままに「ねばならない」を思ってみる。
ねばならない、という思いが、つくづく自分を動かしていることに気づく。したい、という思いが持続しないぶんそうやって暮らしているのかも。
でも、ねばならない、で、続けていることを、いわば逆説として、あえて続けていくと。。たとえばここnoteで毎日書いている日記とか、筋トレとか、そういった暮らすことには直接関係ないことに、限定して、続けていくと。
その無意味さや、つまらなさ、といった、自分で自分を判
舞台裏で、逢おう。目いっぱい気合いを入れて。
親と同じ。文章との出会いは、選べない。出会いの手引きも、するものじゃないひとつの文章と出会った、馴れ初め、に、ずっとこだわってしまうことがある。親は選べない、というやつと同じで、どうすることもできない状況で出会ってしまったがゆえの、後悔に、付きまとわれてしまうのだ。……いま出会いと言ったけれど、それは比喩でもなんでもないのであえて繰り返しておく。「文章」と「出会ってしまった」こと。ただそれだけの
iPadの「不自由さ」に少しだけ悶絶する〜電源とコンセントのナゾな関係〜
我が家にはパソコンがない。代りに、iPadがある。そのアイパッドについて。……いま我が家と言ったけれど、うちには連れ合いがいて、個別のスマホは持っているが、単純に画面が大きくて便利なので、二人して動画サイトなどを観たり、こうしてnoteに投稿したり、と、iPadは大活躍中だ。下手をするとだからヘンな音が出そうなくらい使い回している。ウルトラ式になんでも保管してくれる冷蔵庫みたいだ、と思う時もある。
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