ホトトギス

Facebookでは「飛鳥ユタカ」。ちなみにホトトギスの由来は「昼も夜も鳴く」から。ここではさまざまな言葉の綴り・響きとフルートの音色をすこし。

ホトトギス

Facebookでは「飛鳥ユタカ」。ちなみにホトトギスの由来は「昼も夜も鳴く」から。ここではさまざまな言葉の綴り・響きとフルートの音色をすこし。

マガジン

  • 感極まるくらいの寸前

    不意に感じたこと考えたことを含め、もよおした気分をそのままあるいは工夫して綴ります。

  • 日を守る

    公開日記です。書く、という行為そのことに取り組みます。推敲を含む見直しは一切しません。誤字脱字も気づかない限りは放置。

  • 学童保育の現場から

    ホトトギスこと、とある学童保育指導員の、日常からの思いを綴っています。

  • ホトトギス笛

    笛吹きさんでもあるホトトギス。折々の心象と風景に載せてお届けします。フルートをノンジャンルで演奏します。

  • シリーズ・風景のわたし

    いわゆる過去ログに当たります。まだnoteを初めてまもない頃の作品。この先、既存のマガジンに振り込むかも。

最近の記事

【バナナ】

歌いつづけた バナナが 過ぎた 船の底 ららら らららと パイナップルを 励まし いまは陸に ポスター シール そしてわたしに ららら らららと 歌っていた バナナが 過ぎた 苦かった頃 を 思い出し 切ってみよう

    • カラダの言い訳。私の言い分。

      考えがまとまらないことを見守っている。何かの筋道をつけることにはきっとワナがあると疑っている。どうしていいかわからなくなってしまい、不安で、オロオロするし、小さい時から今までの、言われてきたこと、耳に残してきたことを見つけ次第さわっていじくり出したりする。そうかぁそういう訳だったんだな、なるほどと得心する。それでなんとなく落ち着いて、でも落ち着いたところがまた不安になってを繰り返す。いい加減飽きて眠くなる。 だからかは知らないが、カラダの臓器のストーリーを勝手に組み上げてみ

      • 太陽の光に押し倒されそうになりつつ、それでもなにかは言いたがる。

        気持ちや気分はいったい誰のものだろう。自分のものに決まってるという人がいるだろう。でもそういった気持ちや気分がころころ変わり、その時に発したそれらをいつも把握していられないとしたら、それはもしかして自分のものではないかも知れない。 かくいう自分というわたしがそうであり、それが躁鬱病ということだとしても、こういうバラバラを言葉という容れ物に入れるのは厄介だ。だからいっそずっと黙っていたいのだが、そうすると言葉のほうから擦り寄って来る。何か入れてくれ、盛ってくれ、うんぬんとしつ

        • 納品

          信用するなら 信じないほうがいい おもっていることが どこかへ飛んでいくから (つなぎとめるのは数字だけ) 信じるなら 信用しないほうがいい かんじていることが どこまでも沈んでいくから (間違っているのは目盛りのほう) わからないものを ゴメンなさいと 納めるほど わたしは正直ではない せめて 番号のついた ありがとうを 捨てにいくまで どんな扉にも 手はかけない

        マガジン

        • 感極まるくらいの寸前
          8本
        • 日を守る
          69本
        • 学童保育の現場から
          4本
        • ホトトギス笛
          22本
        • シリーズ・風景のわたし
          4本

        記事

          何もかも、起こるまでは、現実ではない。それは、ことばですらない。

          動物的な勘、カンが、働いてうんざりすることがある。たいてい当たる。布団から起き出してふと、というタイミングが多い。 今朝は実際にそれが的中した。飼い猫が食事の直後にカーペットに吐いた。たまにあることで、仕方ないのだが、今回は猫の、吐きたいけれど、食べたい、みたいな思いをキャッチしていた。大袈裟にいえば胸騒ぎがした。 こういう日は、ふだん何気なく、まあいいか、と、済ませていることを改めたほうがいい。人間も動物だから、いや動物以上に、ことばによらない思いを、発散していることが

          何もかも、起こるまでは、現実ではない。それは、ことばですらない。

          言いたいことがあってもなくても、ことばが使えるのはいい。それが偽造でなければ。

          きのう久しぶりに職場に出た。シフトの都合で連休が長引いたからだが、生のことばが行き交う市場で買い物をしたような感覚があった。おかげでだいぶ楽になった。このところことばの袋小路にはまったようなところがあったので。 そう、いま買い物といったけれど、財布からお金を出し入れするように、ことばを使えるようになった、といったらいいのかも知れない。小銭のようなことばでも、一万円札のようなことばでも、出したければ気軽に使っていいのだ、どうせ残高が増えも減りもしないのだから、みたいな。この、

          言いたいことがあってもなくても、ことばが使えるのはいい。それが偽造でなければ。

          記憶なんて言いたいことの塊だ。特に自分のそれなら手加減して相手しないと痛い。

          きのうの晩はマジメに困っていた。思い出したいことがあり、ある方とのメールのやりとりを検索していたのだが、まったく見当がつかなかった。相手があってのことで、これなので、この日記を読み返す必要がないのは明白だった。 正直うんざりした。というか、自分の記憶そのものがいかに都合がいいものかということだった。実際きのうは職場のシフトを間違えた。休みなのに出だとばかり思ってバスに乗ってしまった。出勤表を見間違えていたということだが、きちんと記録されたものの確認ですらこの始末。 ともあ

          記憶なんて言いたいことの塊だ。特に自分のそれなら手加減して相手しないと痛い。

          役割をつかさどることば、の、卵をあっためている。実際に役割に入るまでの時間ギリギリまで。

          三日連休があり、今日からまた放課後クラブへ出勤。風邪と思われた症状もすっかり元気になったので、からだ的には問題ないのだが、いわゆるコミュニケーションについてのことが気になる。三日間でも、連れ合い以外の人たちと触れ合わないでいたので単純に緊張感がある。 もともと集団が得意ではなく、無関係の人々の雑踏のなかにいるのは、構わないのだけれど、なんらかの役割を与えられた集団の構成員、ここでは職場の人たちということだけど、そのあいだで役割をこなすというのが苦手なのだ。子供を相手にするの

          役割をつかさどることば、の、卵をあっためている。実際に役割に入るまでの時間ギリギリまで。

          あたまもからだもことばさえもニセモノなら。あとはただ変わっていくだけだ。

          きのうあたらしいニセモノになるなどと息巻いていたが、寝床から起きて毎日の日課からこなす。飲尿。快便の確認。まずいコーヒーを飲む。体調不良で控えた筋トレを再開する。この日記もつける。どこもあたらしくない。 ただ、あたらしいニセモノ、になるという了解は、、そう、了解という感じだけれど、それを受け入れる感触はある。ニセモノのあたまとからだ。ニセモノのことば。それを引っ提げて、自分でも気づかないところで変わりながら毎日を過ごすだろう、という思いがある。そして時間と都合が許す限り、つ

          あたまもからだもことばさえもニセモノなら。あとはただ変わっていくだけだ。

          くだらなく突破した。わたしは明日を待たずに、あたらしいニセモノに、なる。

          外に出て木を剪定した。隣家との境にあるサザンカが思っている以上に枝を伸ばしていた。ワイヤー仕立てのフェンスのそばに植えられているので放っておくとすぐに越境しようとする。一度注意をされたことがありにそれから気がつくたび切った。 自己流つまり適当だから、どこをどう切ればなどとは考えない。文字通り思ったままに小さなノコギリで落としていった。常緑樹らしい生木からでる匂いが立ち込め、他の捨てるものと一緒にしていたゴミ袋はすぐにいっぱいになった。ところが袋の口を縛ってから、捨てようとし

          くだらなく突破した。わたしは明日を待たずに、あたらしいニセモノに、なる。

          五年ぶりに流行りを体の中で繁殖させた、と、思われる。とにかく養生したい。

          きのう、からだが痛い、寝ている間に夢の中で動き回っていたのかな、などとなど無邪気に空想していたら、食欲がまったくなくなり胃がムカムカしだした。悪寒もしだした。ああ、これはあきらかに、風邪か、いま流行りのアレか、ともあれなにかに感染したことは間違いないようだ。痛みも、腰とか膝とか手首とか、あきらかに関節に集中しはじめて、といって喉が腫れているわけでもなく、なんであれウイルス性のものかなと想像した。 それで、休もうか迷いつつ短時間だからと、放課後クラブでの勤めをなんとか終えて、

          五年ぶりに流行りを体の中で繁殖させた、と、思われる。とにかく養生したい。

          寝ているあいだに無意識に運動? 異空間に行っていた? なんて妄想する。

          目が覚めてからからだが痛いことに気づいた。別に普段よりからだを動かしたわけでもなく、思い当たることもない。それで勝手に妄想してみた。 もしかして、寝ている間に、どこか違う空間で動きまわっていたのか? そんなはずはないことは、たしかだが、そういえば似たような経験は前にもあって、もしかすると覚えていない夢のなかでやたらとからだを布団のなかで動かしまわっていたのかも。布団がはがれるほどのことは、なかったはずだが、からだはちいさな動きでもそれに慣れていないと案外、負担になるものだか

          寝ているあいだに無意識に運動? 異空間に行っていた? なんて妄想する。

          予測ばかりして、結局、出たところに従う。どこかの報道ではない。わたしのあたまの中の状況。

          あたまのなかが、とっちらかって、収拾がつかない、そういうときは黙ってぼうっとしているか、あるいはひたすら独り言をいっているか、どちらか、あるいは両方で、やり過ごすが、いまは出かける前の自宅の中なのでどちらでもいい。連れ合いにはさいわい慣れてもらっている。それに甘えていかにも変な人になる。 でもいまはそのどっちにも組し得なくて、勝手に困っている。。今日に始まったことではなく、このところの傾向だ。わたしは躁鬱病で、いまは躁期にあると自覚するが、単純にいろいろな思いが湧きでてしま

          予測ばかりして、結局、出たところに従う。どこかの報道ではない。わたしのあたまの中の状況。

          認められたいより、認めたくない、がわたしには大事。〜SNSでのひねくれ自戒〜

          うまく言えないことを、そのまま、書きつけようと思う。時間がないからではなく、ほんとうにうまく言えないから。 ここに加えてわたしはFacebookをやっていて、たくさんの、いいね、をつけている記事を見るのだが、どうも、主張している人の意識、つまりなにかを発信したいという欲求とは別に、いいね!と賛同する人がいて、そのいいね!という欲求をひたすら集める仕掛けになっているような気がして、なんだか妙だと思ってしまう。 なんだろう、歪んだ思いだとわかって、いるが、、SNSというものに

          認められたいより、認めたくない、がわたしには大事。〜SNSでのひねくれ自戒〜

          ことばに出来ることだけ、ことばに任せて、あとは食べて出して息をしている午後。

          カレンダーの都合と勤務先の都合で、休みがおおくなり、暇を持て余しているせいもあるが、ついあれこれ考えることが多いなか、いきなりつまらないことを書きつけては午前中をうんうん渋い顔をしていた。 何かをいい表すには、いろんな思いが出てくるわけだけれど、それをいちいちことばに変換するには、限界があり、といってあまりに言い方や言い回しなどを選んでいると袋小路に入ってしまう。そういう迷路をたのしむ向きもあるかもしれないけれど、自分には正直に無理で、むしろことばの運動能力をそのまま使って

          ことばに出来ることだけ、ことばに任せて、あとは食べて出して息をしている午後。

          忘備録的な考察。〜躁鬱のわたしなりの仕組みと屁のつっぱり的な対処〜

          わたしは躁鬱病という診断がついていて、それとの付き合いのなかで、いわば生活の知恵のように、感情の起伏を観察する癖がついている。喜怒哀楽という大雑把なものではなく、いま気持ちがもどんな表情をしているのか、というくらいの、いわば、気分のご機嫌、を伺うみたいなものに、あえて例えるなら近いかもしれない。 そんな中で、さまざまな表情を見せる気分の移り変わりが、一体どんなものからの影響を受けているのか、注意していることが多く、自分の外側にある事柄、ああ、こういうことなのか、と認識してい

          忘備録的な考察。〜躁鬱のわたしなりの仕組みと屁のつっぱり的な対処〜