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言い訳の、中途半端な状態のままに「ねばならない」を思ってみる。
ねばならない、という思いが、つくづく自分を動かしていることに気づく。したい、という思いが持続しないぶんそうやって暮らしているのかも。
でも、ねばならない、で、続けていることを、いわば逆説として、あえて続けていくと。。たとえばここnoteで毎日書いている日記とか、筋トレとか、そういった暮らすことには直接関係ないことに、限定して、続けていくと。
その無意味さや、つまらなさ、といった、自分で自分を判断して評価している部分が、いかにおおくてそれが厄介なことかに気づいて。
だからといって、こうした、ねばならない、として選択していることが、他人の利害とほぼ無関係なところにあることに、気づいて。
ああ、つくづく、自分は、自分にしか興味がないのだなあ、というか、自分を他人のようにして、ねばならないと思いつつ、行動したりふるまったりして。
自分を位置付け、わたし、という、あいまいなものをあいまいなまま受け入れて、ジタバタしているのだなあと思う。それにしても。
わたしに、やりたいことなんて、ほんとうにあるのだろうか。。正直、ない。というべきかいま触れてみたように。
ねばならない、という、枠にはめてみて。そして他者とは限りなく繋がらないところでそれを、実行してみて。
わたしの場合は、したい、やりたいと思うことが、はじめてわかってくるみたいだ。。もちろん、それが持続しないということを、初めからわかってのことで。
ねばならないを、続けてみる。。それは誰との約束でもない。もちろん、自分との約束でもない。だってそれは、純粋に、ねばならないことなのだから。。補足だが、これは、わがまま、ということとはちょっと違う。わたしの場合のわがままとは。
ほんとうにしたいと思ったときに、することで、それは、ねばならない、でたまたま見つかる、やりたいことより、もっとはかなく、衝動的だ。これにはわかりやすい具体例があり。
いわゆる笛を吹くことにあたる。。事実このところまったく、吹いていない。