【映画感想】「天使にラブソングを」を見た。
ここいらできれいなストーリーの映画を見ようかと思って、「天使にラブソングを」を見た。
前に見たことがあるけれど、随分と前のことなので細かいところは忘れていて新鮮な気持ちで見ることができた。
この映画は歌が有名で、歌だけで十分に観客を引き付けうるものだけれど、ストーリーもわかりやすく、常に観客の注意を切らさないようにしている。
物語冒頭で主人公の特性が明かされる。
冒頭の歌の場面の後、同僚たちと話している場面の会話だ。
「自分の力で生きていこうとしている」ということだ。真面目に社会情勢を研究したら、進歩的とかなんかそういうのと結び付けられるのかもしれないけれど、ここではとりあえず、抽象度高めにこう言っておく。
この場合自分の力というのは自身の歌の力だ。
主人公は自分の歌の実力で、都会に行けば幸せになれると言っている。(実はそれが完全に本心ではないことを示唆するショットは入るけれど)
おもしろいのは自分の力で生きていこうとしたことがきっかけとなって一つ目の困難に直面することになる。
一つ目の困難というのは「殺人現場を目撃してしまい、命を狙われる」ということだ。
ギャングの親分からのコート(親分の妻からのおさがりだ)を叩き返し、縁を切ろうと親分の部屋を訪れたことで、この危機を
当然観客はこれをドキドキしながら見ることになる。どうやって危機をのり切るのか、ひょっとして捕まって殺されてしまうんじゃないだろうか。
ちなみにこの困難は映画の要所要所(5分から10分おき)で親分側の場面が挿入されることでつねに観客が忘れないようにしている。
この一つ目の困難から逃れるために主人公は第二の困難の場に放り込まれる。
第二の困難は「主人公の奔放な気質と修道院の規律の対立」だ。
主人公は自由を望む人間なので、修道院の規律になじめず、反発する。
規律を象徴する人物は修道院の長だ。院長と主人公はしばしば対立する。
最初は院長の方が優勢だったが、主人公が聖歌隊の指導で成功を収めたことで、形勢は主人公側に傾き始める。
むしろ、例えば自信のない友人を勇気づけることだとか、すさんだ街の人々とつながろうとする活動を提唱する、などの親切心は主人公の中にもともとあった修道院の本来の理念に近いものなのかもしれない。その善性に共感したので、尼僧たちは主人公についていこうとしたのかもしれない。
ここで上手いなと思うのは、院長のキャラクター造形だ。
最初は規律を守ることしか頭にない頑固者のように描写されているけれど、主人公との勢力争いに負けていくなかで、別の側面も現れてくる。院長が規律を守り、外に出ることに反対するのは、それが尼僧たちを守ることになるからだ。壁は閉じ込めるものであると同時に守るものであるのだから。
実際、街の外での活動をテレビで放送されたことで、危うく親分に主人公の居場所がばれそうになってしまうシーンもある。
その後、主人公が誘拐される事件が起こり、院長を含む修道院の尼僧たちは決断を迫られる。「主人公を助けに行くか、行かないか」という判断だ。
尼僧たちは当然助けに行くことを選択する。
これは主人公の積極性の影響だと言えるだろう。
同時に、院長にとっては少し違った意味で葛藤が解消されるポイントになっている。
この段になってはもはや、院長にとって主人公は守るべき尼僧たちのうちの一人なのだ。
捕まった主人公は殺されそうになるが、かろうじて生き延びる。
生き延びた理由は「主人公が本当に尼僧になったのではないか」と親分やその部下たちが疑問に思ったからだ。
主人公の内面にあった理念のようなものが実は尼僧としての性質とそれほど遠いものではなかったので、外見のみならず中身も本物の尼僧に近いものになったのだ。そして主人公は修道院の生活の中で、自分の中にあるそれに気が付いたのだ。
クライマックスの助けに来た仲間が撃たれないように、主人公が前に出てくるのも、自己犠牲とかなんかそういうのなのだろう。
このように見てみるとかなりがっしりとした形でストーリーが組まれているのがわかる。
主人公の性質がきっかけとなって困難が発生する。その困難に対処する中で次の困難が発生し、対立が起こる。
対立の中で相手と主人公の双方に変化が訪れる。
その変化によって一つの困難が解決し、また最初の困難も変化の影響で解決する。
tipsとして使えそうな要素を特に抜き出しておくと
・危険はかなり高頻度で思い出させてもいい。
・対立者にも対立する理由・道理があるとよい。
・対立者の言葉に従わなかったせいで危険が近づくというのもよい。
などがあるだろうか。
一つのストーリーの類型として記憶しておきたいと思う。