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Episode 625 優位が全てじゃありません。
最近になって「対談」がマイブームなのです。
それは、先日から話題にしているTwitterでのスペース機能が大きな役割を果たしているのだと思います。
私のような地方都市で生活している人ではリアルで行動できる範囲で相手を見つけることが難しいような話題でも、対話が可能だったりするあたりに「音声SNS」の魅力があるワケです。
さてさて、毎度ご登場いただきまして恐縮なのですが、毎回記事にするほどあずささん(@41azusayumi)との対談は発見が多いのですよ。
今回(7/24)の対談の話題は「理解するってどんなこと?」ということだったのです。
何度か私の記事にも登場してくださっているので、あずささんがどのような方か知っていらっしゃる人も多いでしょうが、今回の話題のベースになる部分について改めてご紹介させていただくと、私と同じASDの方であるという共通点がある一方、言語優位の認知特性を持たれている方なので、視覚優位の私とは「モノの理解の仕方」が異なることが多いだろうと思うのです。
これを受けて、あなたの「分かった」って何?…と、スペースで問うたワケです。
先ず、私。
私にとって「分かった」とは、自分の記憶の素材と新しく入ってきた「モノ」がリンクするイメージ(映像)であるということ。
言い換えられる表現が多いほどに理解が深まる…であるということ。
それに対して、あずささん。
正二十面体の頂点を作りあげるということ。
理解が深まるごとに頂点の形が明確になっていくようなもの…と私は理解しました。
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それでこれ、対話を重ねるうちに、どっちが言語優位でどっちが視覚優位なのか分からなくなってきてしまって、私は困ってしまったのです…というのも。
確かに私の頭の中は「映像がメイン」なのですよ。
但し、それを誰かに伝えるために表現する方法として、必要に迫られて言語に頼らざるを得ないワケで、「どうしたら伝わるか」を考えた結果として「あなたが理解できるであろう表現」を探し出すことが必要になるのです。
「言い換えられる表現が多い」とは、イメージからリンクされた言語化への引き出しの多さを指すワケですよ。
一方、あずささんはというと、やっぱり頭の中は図形なのね。
その頭の中で作りあげらている正二十面体のディティールを誰かに伝えるために、正二十面体を構成する辺の、説明に使う辺のルートを変える…のだそう。
と、言うことは…あれあれ、それが「どうしたら伝わるか」を考えた結果として「あなたが理解できるであろう表現」を探し出すことであるとすれば、やっていることは私と同じなの?
この謎の解明には、あずささんのこのツイートが参考になりました。
本から世界を学んでいる現在、現実から世界を学びたいよね、と、大学生のころ友人と話していたことがある。いまは、たしかに現実から学んではいるんだけど、そうだね、現実を単純化するフィルターを通してのみ、わたしは世界を認識できる、って感じかな。そのフィルターは外せないのよね。
— あずさ (@41azusayumi) July 25, 2022
恐らく…。
私とあずささんが同じ正二十面体を見たとして、私はその特徴を視覚で「まるっと」受け入れてしまうのでしょう。
それを表現する段階で、初めて特徴を具にカウントしていく必要が発生する気がします。
一方であずささんは、視覚で納めた正二十面体のディティールを「具体的な特徴」で補強するところまで完了して理解…ということかと推測します。
誰かに比べてではなく、自分自身の中において、言語に比べて視覚に自信のないあずささんは、視覚情報に付箋を付けたいのだと思うのです。
考えるな、感じろ、と言われると、わたしはとまどう。それは、ひとつはこの、「認識のレベルの単純化」のせいだと思う。感じるだけでは、世界の解像度が低すぎる。意味が見いだせず、不安になる。考えて、低い解像度の像(ほぼアイコン)をつなげるなどしてはじめて、世界は意味を持ちうる。
— あずさ (@41azusayumi) July 25, 2022
言語によって付箋が付けられた正二十面体は、私にそのディティールを伝えるにあたって、必要な付箋を剥がして並べることで適切に説明されるのでしょう。
一方で自分自身の中において、視覚に比べて言語に自信のない私は、具体的な映像イメージのまま素材を保管し、表現する段階になって特徴を言葉に起こすのだと感じます。
伝えるというアウトプットを「こんな感じ」に考えた時、言葉から脳内イメージを作り出すインプットの方法にも大きな差が出ると感じます。
私は視覚からダイレクトにイメージ保管することは得意でも、言葉という情報を具体的なイメージにするためには、情報が書かれた付箋を集めて脳内の類似するイメージデータと照合させる必要があるワケです。
一方言語優位のあずささんは、ツイートにもある通り「具体的な映像イメージの解像度を必要としない(ほぼアイコン)」代わりにアイコンの画像に言葉という付箋を張り付けて保管することが可能なワケです…多分。
クルマ…という言葉の認識で考えます。
スマホの絵文字(アイコン)の画像に言語付箋が付く…色は、メーカーは、車種は、ボディタイプは…コレがあずささんタイプ。
AE86型パンダトレノの画像が1枚…それだけだけど、白黒ツートン、年式、スペック…に至るまでの情報が内封されている…コレが私。
同じAE86でもトレノとレビンは違うのよ、私はその違いを明確にする2枚の画像を必要とするのに対して、あずささんはトレノとレビンという3文字を入れ替えて情報の修正が成立する…多分。
人間ですからね、定型にせよ障害があったにせよ得意不得意は多かれ少なかれあるのだと思うのです。
認知特性であれば「視覚/聴覚/言語」の三分野のバランスが取れているのが「社会生活を送る上で」よりベターなのだと仮定して、そのバランスの悪さ故に特定の分野の強みと弱みが出来上がる、それが自分でコントロールできないほど強くなると生活を送る上での不具合となってしまうのかも知れません…クルマの認知の例みたいにね。
ただ、今回の対談で思うのは、優位はあくまでも優位であって、苦手だから全く使わないのか…と問えばそんなことはないということ。
言語優位でも視覚も聴覚も使える範囲で稼働しているわけで、視覚優位の私も言語や聴覚を切り捨てているワケではありません。
ここで浮上する感覚は「普通」というモノへの「相対的な距離感」で、三分野のミックスが下手なことで発生する普通への違和感が異質を際立たせている可能性です。
ということで、社会一般で言う「普通」の取り扱いが、モノの理解する過程においても深く突き刺さっているということを改めて感じてしまうのです。
このハナシは次回、定型的低解像度理解の共有…という視点に続きます。
過去のあずささんとの対談で得た学びや感想など、関連記事を添付しておきます。
よろしければ、こちらの記事も是非ぜひ。