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Episode 613 人材育成の極意です。

やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ
話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず
やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば 人は実らず

山本五十六

さてさて、今回も山本五十六の言葉を発達障害(神経発達症)者的に解釈するお話し…その後編です。
前回のお話の詳細に関しては過去記事をご覧いただくとしてですね…。

要点だけを掻い摘んで言えば、「人から見た私の評価」というのは、あなたのやっているものを見て聞いて真似て、あなたと同じように行動できる能力が大きな幅を利かせるのだろう…ということです。
できることと出来ないことの差が大きな発達障害(神経発達症)者は、この「真似て出来るようになるに対してのジャッジ」という部分に大きなハンディキャップを抱えるケースがあるだろう…と私は指摘したのです。

ところで、その「出来るようになるに対してのジャッジ」は、真似て出来るようになることをクリアすると、違う課題が与えられるのですよ。
人はそれを「成長」とか「人材育成」と言うらしいのですが…。

このツイートは以下のように続きます。

この逆も然りです。
ひとつ目の「できる」の表現はクリアしても、「できる」のレベルは次々と上がり、ふたつ目みっつ目と押し寄せるのですよ。 
得手不得手の差が大きいということは、その次々と押し寄せる「できる」へのチャレンジの中で、周囲がびっくりする苦手と向き合う時が訪れるということです。

発達特性で得手不得手に凸凹があるということは、つまり何処かのタイミングでこの「常識」では考えられない「できない」と向き合うことになる…ということだと思うのです。
だからこそ、できないを明確に把握する必要がある…できるだけに縋って「強みを活かす」では足元を掬われるように思うのです。

私の過去を振り返り、「見て真似る」という点に関してはクリアできたのは多分間違いありません。
出来ると判断されれば当然の様に次の課題が与えられ、その課題と向き合うことになるワケです。
私がぶち当たった「出来ない」は、上司として部下を持つ、その部下との対人コミュニケーションの部分のハナシだったワケです。

これは常日頃から私がお話ししている、ASD的な「自らの意思をコントロールすることの難しさ」が根底にあるワケです。
この点に関しては「対等な関係が分かりません。」という過去記事に詳しく書いてあるのですが、簡単に言えば、「『正解』に導く行動を指定してくれる思考乗っ取られ」が外されて、自ら考えて主体的に行動しなければならないことが、結果的に「自己完結/思考乗っ取り」につながるということです。
つまり、自分の気持ちを上手くコントロールできないとは、あなたの意見を上手く取り入れられないこととセットだと言うことです。

一般的な「生育/発達」をした人は、社会生活を送る上で多少の得手不得手はあるものの、与えられる「次の課題」に対して足元を掬われるほどの大きな落とし穴に嵌るようなことは少ないのでしょう。
「それができるのなら、これも出来るだろう」という予測が立ち、「時期的にこんな課題に挑戦することが期待される」ような成長の期待値にも、ある程度は応えられるようなイメージが付けやすいのかもしれません。

ところが、ところがですよ…。
その「人としての成長」の予想を裏切るほどに得意不得意のムラをもつ人が存在するワケです…そう、私のような発達障害(神経発達症)者です。
前回のハナシのように、見て真似るに苦手を抱えるタイプの方…つまり、その後の伸び代がどれほど大きくても、最初の一歩目で弾かれてしまう方もいれば、今回のハナシのように、ふたつ目みっつ目のステップで相手の期待を裏切るような「出来ない」によって弾かれるようなタイプもいるワケです。
何にしても、相手に与える「ガッカリ」とは、あなたの「普通」と思う期待値に応えてられないということなのでしょう。

そこで登場するのが山本五十六氏の言葉…その二行目です。

話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず

山本五十六

これは、何の隠しようもなく「合理的配慮」のハナシです。

前回のハナシのように、見て真似るに苦手を抱えるタイプであれば、
①見て真似るに時間が掛かるとの意見を聞き、承認する
②見て真似るを飛ばして別のことから仕事を与えることを承認する
③見て真似るが上手くできるような補助機材を使うことを承認する
…のような工夫/配慮をお互いの合意で決めて任せてみる…ということでしょうし、
今回話題にした私のようなタイプであれば、
①部下を置かない単独での仕事を与える
②上司にならず、部下としての立場で実力を発揮できるようにする
③苦手をカバーできるようなサポート役を置き、常に助言を受けられるようにする
…のような工夫/配慮をお互いの合意で決めて実行してみる…などができるかもしれません。

何れにしても、自分の得意と苦手の把握があって初めて「話し合い」が成立するワケです。
逆から言えば、あなたは私の得意と苦手が何であるかを目で確認し、耳を傾け、苦手をカバーする方法を話し合い、承認する必要がある…ということになるのだろうと思うのです。

ところでですね、あなたは何でこんなに山本五十六氏の言葉に合理的配慮を「こじ付け」て言っているのだ…と思うかもしれませんけれど、私はこの人の言葉だから、敢えて「こじ付け」たいのですよ。
良いですか、山本五十六氏は旧日本海軍の軍人なのですよ。
その軍隊をモデルにした日本の教育体制が、今に至るまでに学校や社会に大きな影を落としているのですよ。

その横並び一律に規則正しく、出るも遅れるも許されないハズの軍隊の、その司令長官たる人が言う「人材育成の極意」は、やってみせて褒め、話し合って最善の方法を探って試してみる…であるワケですよ。

合理的配慮も、一般社会の陥りやすい罠も、既に山本氏の生きた時代に分かっているたことであって、最近になって判明したことではないのですよ…私が指摘したいのは、ソコです。

つまり合理的配慮とは、一般社会に合わせるための道具ではなく、「人材育成の極意」なのですよ。
ここを上手く理解するために必要なことは、得意と苦手のポジティブな自己理解であるのだと、私は思うのです。

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