書くことの効能は、記憶や感情を「手放せる」ことにあるのかもしれない。
ライターとして仕事を続けるうえで、「書くことの効能ってなんだろう?」と考えることが増えてきた。
というのも、私自身が書くという行為を通じて、少しずつ変化している実感があるからだ。
この半年間、ある文筆家が講師を務めるエッセイ講座に通っていた。
エッセイ講座は月に1回、2時間程度の授業が開講され、出される課題のテーマに沿ってエッセイを書き、提出する。
そして、提出したエッセイを講師と自分以外の生徒に講評してもらう。それを5回ほど繰り返すカリキュラムだ。
私はライターだけど、仕事で書く文章は取材を元にしたものが多く、個人的な記憶や感情を辿って書くエッセイにはあまり自信がなかった。
だから、正直毎月の授業を受けるのも気が重かったのだけど、なんとか半年間の講座を完遂することができて、自分がちょっと誇らしかった。
そんなエッセイ講座の最後の授業で、先生が話していたことがとても印象に残っている。
「人はね、生きていると自分が過小評価されていると勘違いするんです。自分はまだまだ評価されてない。もっと評価される、本当の自分が存在するはずだってね。でも、本当の自分なんてものは幻想です。どうしようもない自分を、あるがままの現実を引き受けなきゃいけない。書くことというのは、人々が抱えるそんな被害者意識から脱却する一助になるんですよ」
すごい言葉だと思った。被害者意識からの脱却、それは私自身がまさにエッセイを書くなかで感じていたことの1つであったように思ったからだ。
私は感性が優れているわけでも、教養があるわけでも、人生経験が豊富なわけでもないから、エッセイを書くためにはおのずと自分の過去に向き合わなければいけなかった。
記憶の中で蓋をして見ないようにしていた感情をほじくり返して、それを頭を抱えながらでも文字にして、やっと人の心を動かせる文章を書くスタートラインに立たせてもらえると思っていたからだ。
だから、裸踊りでもするような気持ちでエッセイを書いた。もう何でも見ていってくれと曝け出すことにした。
そうして書くことに向き合っているうちに、自分の悲しい過去や苦しかった記憶が、至極どうでもいいことのように思えてきたのだ。
当時はあんなに悲しくて、「どうして私ばかり辛い思いをしなきゃいけないんだ」とこの世を呪っていたのに、書いてみたらあっけないほど小さな苦悩。一つひとつが紛れもなく過去になって、私の手からたんぽぽの綿毛のように離れていくのを感じた。
私が書くことを通じて自分自身が変化していると感じるのは、この「書いて手放す」ことを続けてきたからかもしれない。
私のように器用ではなく、しかしそれゆえに鈍感ではいられない人、特に自分の感情の機微から目を逸らせない、ある意味自意識が過剰な人間は、あまり記憶や感情を抱えつづけないほうがいいと思っている。
抱えつづけてしまうと、感情や記憶の負の側面ばかりが煮詰まって色濃くなっていって、苦労した過去がまるで自分のアイデンティティかのように、心の中に居座ってしまうからだ。
だから、書くことが被害者意識からの脱却、ひいては手放すことに繋がるのなら、悲しみに暮れやすい人はやはり書くことが癒しになるのだと思う。
今回のエッセイ講座はそんなふうに考えられる、良い機会になった。