人々に光を灯す存在でありたい。
初めも、そして今でも私は、noteの住人の人々が放つ 光の輝きに 眩しくて目を覆いたくなることもしばしばだ。
「こんなことができます/得意です」
「書けた/描けた!沢山の人、見に来て!」
努力だけでなく、少なからずの才能に恵まれた人々の輝きというのは
本人にはわからないだろう。
けれど、放つ光はとてつもなく強烈なのだ。
「こんなところで私が書いていいのか」
そんな思いは、いつも存在する。
でも、多くの出会いや、沢山の嬉しい出来事にも恵まれて
どうにかこうにか、まだこのnoteの街の片隅で ひっそりと文章を綴る。
私が書いた文章を読んでくれるだけでなく
コメントをくれる人がいる。
とても幸せな日々だと思う。
ここnoteで 私はエッセイを主に書いている。
エッセイと言っても、プロのエッセイストさんや、書くことを生業としている人から見たら とても稚拙でレベルの低いものだろう。
でも、私は私なりにプライドを持って書いている。
なぜなら、私のエッセイの対象は 架空の人物ではなく、実際に存在する/存在していた人物にフォーカスを当てたものだからだ。
私はもともと 人 に対して純粋な興味関心が強い。
その人が無名の、どこにでもいるような人だとしても 私は その人の生き方や考え方にとても惹き付けられる。
記憶を手繰り寄せ、その人との思い出を書く時間は
私の大切な時間だ。
私は人というものが大好きなんだな。
そう思う。
だからこそ、用いる言葉にもとても神経を使うし
書くこと自体はそこまで時間はかからずとも推敲、編集の時間にはとてつもなく時間を割く。
私なりの言葉で、しっかりとその人を描きたいからだ。
無意識に使った言葉で人が傷つくこと、それも絶対に避けたい。
こうした今の私があるのは
中学・高校6年間在籍した演劇部での経験が大きいのだと最近改めて気づいた。
小学校の高学年で舞台に立つ喜びを知り、
私は 入学した中高一貫校の公演に魅せられて
演劇部へ入部する。
ミュージカルも舞台演目もこなす部活だったので、
朝練/昼練もきつかったし、ランニングや
ストレッチ、体力作りに欠かせないトレーニングやダンス・バレエ、歌唱練習も。
中学入学時にいた部員同期は高3には半分以下に減っていた。
私は、先輩からことごとく嫌われていたこともあるけれど
とにかくダンスと歌以外は運動も芝居も下手だった。
キャストとして舞台に上がったのはほんの数回。
あとは、裏方としてスタッフを全て経験した。
照明、大道具、衣装、メイク、そして音響。
下級生のためにメイクや衣装を合わせていて
「これもっと派手にできません?」
などと言われることもあった。
悔しかった。
辛くて悔しくて情けなくて。
でも、リハーサルなどで幕のそばや 照明のために二階から舞台を眺めていると
さすがに皆緊張しているのがわかる。
「大丈夫、がんばろうね」
「あんだけ練習したんだもん、できるよ」
【歳上でもしょせんスタッフで裏方のほしまるさん】はキャストの下級生からもばかにされていた。
励ましてもスルーされることも多かった。
本番になって照明を当てると生き生きと演技している部員たち。
いつも胸が熱くなった。
そういう時には
「私も舞台に上がりたかった」
なんて感情は一掃されている。
舞台に立つより、裏方が向いてるんだろうな。
そう思った。
ここnoteでしていることも、私にとっては
あの頃、裏方としてやっていたことと代わりないかもしれない。
いいなと思う記事に出会えば、知らないnoterさんでもスキを押しに行く。
伝えたい場合はコメントをつける。
そのコメントに返信がつかないことの方がほとんどだ。
でも、そもそも私は見返りを求めていないのだから。
これからも頑張ってくださいね、の気持ちをこめてスキやコメントをつける。
そして私のところにスキだけでなくコメントをつけてくれた方々には
「長すぎるよ、ほしまるさん!」と思われるのを承知で
感謝の気持ちをこめてコメントをお返しする。
ありがたいことに 以前
Panasonic×noteの投稿コンテスト「スポーツがくれたもの」で
私の書いた「きっかけはバスケットボール。」が
審査員特別賞(三浦優希さん)をいただいた。
その一部は未だにサポート/オススメに使わせていただいている。
頑張っている人を応援したい。
その気持ちからだ。
共に感動する。共に喜ぶ、共に哀しむ、共に泣く。
このnoteというプラットホームでは
その瞬間があまた訪れる。
そんな瞬間、生きててよかったと心から思う。
私は、今生きているのが奇跡なほど
いつこの世から姿を消してもおかしくない人間だ。
沢山傷ついた。
沢山、泣いた。
私の心は何度も【死んだ】。
そうして私の心を踏みつけ、傷つけて
この世からいなくなればいい、といい放ち
冷たい仕打ちをしてきた人たちに恨みはない。
なぜなら、そんな人たちと比べ物にならないくらい、今の私の心は健やかだと思うからだ。
私には夢がある。
この世には、私が知り得ないほど
生きづらさを抱えて生きている人たちがいる。
私の書く言葉にたどり着いて
「この人も頑張って生きてるんだな」
そう思ってくれたら嬉しいし
そうした 生きづらさ、傷を抱えた人たちのために
私はこれからも書き続けたい。
私が言葉に光を吹き込むことで
読んだ人の心に光が灯ったら。
そう願いたい。
だからこそ、私の文章は
万人受けしない、誰が読んでも評価されるものではないと思う。
それでいいんだ。
わかってくれる人がわずかでもいてくれたらいいし
見つけてくれる人が一人でもいてくれたらいい。
看板を出さないお店のように
派手な宣伝も、
多くの人と関わることもしないから
ある意味 noteの秘境の文章。
孤高に、淡々と、そして これまで支えてきてくれたnoteで出会った人たちを大切に
書いていきたい。
私には夢がある。
「なんで絵を描くのをやめたの?」
そう言って心配かけた 天国の両親と妹のためにも
私が生きているうちに
また絵を描くことを再開したい。
小さな頃から絵やイラストを描くことが好きだった。
区や都のコンクールで賞を取ったこともあった。
これは誰にも言ったことがなかったけど。
「将来は漫画家かイラストレーターになりたい」
「本が好きだったから、絵本作家になりたい」
欲張りだが、そんな夢があった。
だが、そんな子ども心がガラスのように砕け散ったのは、
小学校1年~4年までの女性担任の一言だった。
覚えている方はいらっしゃるだろうか?
先に挙げたが、「きっかけはバスケットボール。」で
私が足を骨折したときに 見捨てた先生だ。
「あのコンクールで賞を取ったからって、調子に乗ったら恥ずかしいのよ?
ほしまるさんの絵は子どもらしくないんだから」
そして授業でもこう言われ続けた。
「どうしてほしまるさんは、子どもらしい絵が描けないの?
ほんっと、ひねくれた子だわね」
カシャン、カシャンとヒビが入った私のガラスの心は砕け散った。
今にして思えば、そのヒステリック女性担任の偏見だ。
けれど、そんなことは小学生の子どもが受けるには辛すぎた。
私はそれ以来
「絵を描くことが好き!」
なんて言えない人間になった。
学級委員や生徒会で
必要なプリントの挿し絵や
修学旅行のしおりも、全部 人任せにした。
「絵を描く」
ことから逃げた。
でも、ここnoteで沢山の温かい絵やイラスト、漫画に出会った。
楽しんでのびのび描かれているものの美しさ、温かさを知った。
絵が描けないんじゃない、逃げないで
下手でも描けばいいんだ。
そう思い始めている。
そうしたきっかけを与えてくれたnoteで出会った人たちに感謝してもしきれない。
絵を、また少しずつ描くために
一歩一歩頑張ります。
これからも 私は 人 にそっと光を与えられるような
そんな存在でありたい。
この世に絶望している人たちが
命を落とすことがないように
そして私自身も しっかりと地に足をつけて
生きていけるように
私にしか書けない世界を書いていきたい。