眠る、落ちる、往く。
眠れない夜がある。
特に理由があるわけでは無いが、
どうにも体勢が定まらない。
詮無きことで思考が止まらない。
思考と言っても、同じところをくるくる回り続けているような、振り子の如く行ったり来たりを繰り返すような、徒に実のない思考である。
こんな時には、いつもと反対を向いて寝ることにしている。
要は北に枕を向けてみる。
言わずと知れた、釈迦入滅の方角である。
仏教文化が根強く残る日本においては、
北の枕は死を忌む不吉の方角とされ、一種の禁忌となっている。
仏となった遺体は煩悩を排して成仏できるようにと枕を北に向けて安置する。
こうして北枕には死の観念が憑いて回るようになった。
死んだように眠れるようになるかもしれないという単なる気分だが、
不思議なことにこれで体勢は安定点を得て、思考が鎮まる。
仏教的(敢えて日本的というべきか)には不吉の象徴であった北枕であるが、陰陽道的には最も安定した眠りを得られる方角だという。
陰陽道に於いて北は陰と陽の陰、静と動の静、昼と夜の夜に当たる方位であり、夜を安らかに過ごすという意味では最適の方位となる。
また、五行説に基づくと北は水に当たる。
頭寒足熱は古来より養生訓として語り継がれる陰陽の教えである。
五行説に基づくと北は水、南は火で正に北枕は頭寒足熱を合理的に満たす。
地磁気によって血行が良くなり眠りに誘うなんて話もあるが眉唾だ。
こうしてみると両者の北枕に関する生と死のイメージは対照的である。
ただ、仏教的価値観に基づく北枕の忌避が単なる縁起であるのに比べると、
陰陽に基づく北枕観は迷信の色は強かれど多少の合理性が認められれる。
とはいえ、言われてみれば、眠ると死ぬという現象はどうも似ている。死ぬという状況を自発的に観測して報告した事象はないから、あくまで側から見た憶測でしかないのだが。
両者は意識の喪失という点で一致している。現象としての本質的な違いは再び意識が戻るか否かの一点のみである。当然だが意識を失っている間は自身の存在を認識できないから、起きてみないと自分が眠っているのか死んでいるのか分からない。起きると言う行為のみが自発的に死んでいない事を証明する唯一の手段である。
とある会議で、会場近くのホテルに前泊していた方が急逝した。明日の会議のための準備をして眠りについて、目覚めることなくそのまま亡くなった。まだ40半ばだったそうで、前日までは普段通りピンピンされていたという。私の上司もつい3日前に連絡を取り合ったばかりだったそうで、そのあまりにも唐突な死は悲しみの前に会場を驚きで支配した。
誰もが、もしかしたら自分も、と恐怖した。
いつも通りの眠りから、意識の喪失から、
永久に覚められないかもしれない。
何も分からないままに死んでしまうかもしれない。
なんと最悪なことだろうか。
よく年寄りが、オレァピンピン生きてポックリ死ぬんでぃとぼやいているが、死ぬ瞬間を自分で知覚できずに死ぬなんて真平御免だ。経験が言わせるのだろう。死ぬなんてことは人生で最悪のことだ。ただただ苦しいだけならば、知らないうちに死にたいということなのだろう。
私は最悪も知りたいと思う。最悪を積極的に被る趣味は無いが、逃れ得ない最悪がそこにあるならばできるだけその最悪を凝視したい。注射するときも刺される瞬間を凝視しなければ落ち着かない人間なのだ。今際の際も、その直前まで意識を残していたいと願うばかりである。
話が逸れた。
仏教だ陰陽道だとくどくど述べたが、そんなものよりも私は北枕が深い眠りを与えるより合理的な説明を持っている。
いつも同じ方向でおおよそ同じ位置で眠る私の布団は荷重によって歪んでいるのだ。
時間の蓄積がマットレスに生んだ歪みによって体勢が歪になって寝付けず、このストレスが無用の思考を生み出すいう無間地獄が眠れない夜の正体だ。
だからベッドの歪みに対して体を反転させてやれば、歪みはいい塩梅の体勢を与えてくれる。
死を偲ぶより、陰陽の理論より、地磁気笑よりも、
もっと即物的で現実的な答えがこれだ。
オカルトなんてありえません。
とにかく私は安眠を得た。
きっと明日は来るだろう。
終わり。