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SNSを捨てよ、制作に向かおう | 『庭の話』宇野常寛 | きのう、なに読んだ?
宇野常寛さんの『庭の話』は、SNSを中心とするプラットフォームが大きな影響力を持つ社会において、その先に在りたい個人の可能性を、「制作」という行為を軸に考察する著作です。「制作」を可能にする条件はどんなものか、「庭」というメタファーを手がかりに探っているのです。ガーデニングの本ではありません。
全14章、多くの思想書その他の文献と取材を紹介しながら、「だとしたらこうでは?」「そうだとすると、こんな問題が起きますね」と、宇野さんが芋蔓式に謎解きを進める形になっています。全体のサマリーというよりも、印象に残った4つのテーマについて、私なりの理解を以下に記してみます。
1. プラットフォームから「庭」へ――「浪費」ではなく「制作」
宇野さんは、SNSによる承認と評価のゲームへの没頭が、新しい課題設定の多様性を失わせているのではないかと指摘します。確かに、既存の話題に便乗する方が承認を得やすく、そこには手軽な快感があります。しかし、それによって表面的でささいな話題が大騒ぎ(炎上)になり、本来はもっと多様にあるはずのテーマや、自分自身が抱く根源的な問いが埋もれてしまう。
ハンナ・アーレントの分析を引きながら宇野さんは、大規模なゲームに匿名のプレイヤーとして参加すると、人はゲームの攻略自体を目的化し、その本来の意図や目的を見失いがちだと述べています。かつての近代人は世界と自己との関係を「政治と文学(物語)」として捉えていたのに対し、現代では「市場とゲーム」という枠組みが主流になっている、と宇野さんは捉えています。
この状況を見つめ直す手がかりとして提示されるのが「制作」です。SNS上の発信や「いいね!」を集める行為に対して、何かを自分の手で作り出す行為は、承認とは切り離された"没頭感"をもたらし、そこに大きな快楽がある、と。料理、工作、イラスト制作など、評価がゼロでも「好きだから続けてしまう」という瞬間があることに、私も共感を覚えました。
「制作」の議論を展開するにあたり、宇野さんは、國分功一郎さん著の『暇と退屈の倫理学』を持ち込みます。そして、次のように述べています。
『暇と退屈の倫理学』の「仮想敵」がかつての「消費社会」だとするのならば、本書の仮想敵は情報社会にほかならない。
『暇と退屈の倫理学』 は、仮想敵である「消費」に対して人々は「浪費」をすべきだと主張していました。対比すると、本書は仮想敵である「評価と承認」に対して「制作に没頭」すべきだと主張しているわけです。
ちなみに本書の第6章 p.143-146 に『暇と退屈の倫理学』の概要説明がありますが実に分かりやすく素晴らしい要約で、感動しました。
2. 共同体を超えて――個人による社会変化への関与
プラットフォームを相対化できる空間として、しばしばコミュニティや共同体の可能性が語られます。しかし本書は、共同体への過度の依存には慎重な姿勢を示しています。共同体ではヒエラルキーが生じやすく、全ての人が自由を享受できないからです。どういうことかというと、共同体は共同体であるために、内部で同じ物語を共有する必要があります。物語がしっかり腹落ちしていれば共同体内部で強者になれますが、少しズレていると弱者になってしまうんです。私自身、ちょっと周りとズレた考えや行動をしがちで、共同体の縁辺部に居ることがよくあるため、宇野さんの指摘は肌感覚で納得しました。
宇野さんが描く理想は、「共同体に属さず一人であっても社会の変化に関与できる」状態です。SNSなどのプラットフォームはその状態を叶えてくれるように思えますが、実は共同体はプラットフォームとの親和性が高いのです。雑に言うなら、共同体の弱者は仲間はずれ、冷笑、果てはいじめの対象になりやすい。これも、宇野さんがプラットフォームを相対化したいと言う課題に対して、共同体という解の方向性に懐疑的な理由のひとつでした。
3. 「孤独」という基盤
ここまでの論点を整理すると、SNSなどのプラットフォームを中心に社会に広がる承認と評価のゲームへの没頭を相対化する必要がある。そのために、ひとつめは「制作に没頭」すること、ふたつめは「共同体」ではない解を作ること、がポイントでした。
では「制作に没頭」し「共同体」に属さないために、何が重要か…それは「孤独」だと宇野さんは述べています。ただしこれは、望まない孤立や欠落感としての孤独ではありません。宇野さんは「適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界とつながるための回路が必要なのではないか」と問いかけています。
事物と純粋に向き合うためには、一時的な孤独の時間が必要だという指摘は、私自身の経験とも共鳴するものでした。ただ、私には「孤独」より「静寂」という言葉の方がしっくりきます。実は、本書を読み進めながら「孤独」という言葉に使い方に違和感を覚えていたのです。そのタイミングで、仲隆介さん(*)と共にパネル登壇する機会があり、三つの静寂――音の静寂・情報の静寂・内なる静寂――という話を伺いました。(『静寂の技法: 最良の人生を導く「静けさ」の力』参照)『庭の話』で論じている「孤独」は「内なる静寂」だとするなら納得できる、と壇上でピンと来て、ひとり、心の中で喜びに浸っていました。孤独でしたけど嬉しかったですね。
4. 「庭」というメタファーと人間側の条件
話が逸れてしまいました。『庭の話』に戻ります。
本書は、「制作に没頭」し「共同体」に属さないために、「孤独」であれる状態を可能にする環境として「庭」というメタファーを提示しています。「庭」は、完全に支配できるわけではないけれど、そこに関わることで景色や状態を変えていく手触りを得やすい空間として描かれています。ただし、「庭」という環境だけでは不十分で、人間側の条件も必要だ、と。
作家の森博嗣さんがSNSをやらずに日曜大工をしながら執筆活動をしているというエピソードを読んだ(**)ことがあります。宇野さんが描こうとしている「庭」で「制作に没頭」とはそんな姿かもしれないと想像しました。しかしSNSを遮断する勇気がなく、制作の快楽よりも評価と承認を得る快楽のほうを強く感じてしまい、制作に没頭する動機を持てない私たちはどうすれば良いのか…。これが宇野さんの問いかけです。
制作の動機は、事物によって「変えさせられる」という経験から始まると、宇野さんは繰り返し述べています。その事物と「恋に落ちる」とか「出合ってしまった」というような、中動態で表現されるような状態だと私は解釈しています。そしてそのジャンルを深掘りしまくって「次の欲しいものは誰も作って与えてくれない。自分で作るしかない」という境地に達したとき、人は評価や承認を超えて制作に没頭できるような動機を持続的に持つ――こういうお話なんですね。この描写には、自分の経験と重なる部分を感じました。
宇野さんは、ここでアーレントを参照しながら人間の活動を労働(Labor)、制作(Work)、行為(Action)に分類しています。そして、生活の糧を得るための労働 (Labor) の中で制作 (Work) の快楽を得ていく回路を回復することで、「制作」に没頭する動機を持つ人間になるよう、自分たちをアップデートできるのではないか、と提案しています。
おわりに
私自身、気力体力が充実している時は、SNSでのやりとりにちょっとした「狭さ」を感じ、もっと広い場所で考えを展開したくなる。一方で、疲れているときはタイムラインを惰性で眺めるだけになってしまう――『庭の話』を読んで、そのような自分の状況を思い起こしていました。「制作」「孤独」「庭」という概念を通じて、疲れていても「制作」の動機を見失わない(***)ようにするには私はどうしたら良いのか、あり方を見つめ直すヒントが散りばめられているように感じます。
本書からは、他にも
「制作」と「書く」ことの関係
周りとの共存、静寂、「孤独」の関係
「ゲーム」「攻略」が苦手もしくは嫌いな自分
といったテーマを考察する糸口と材料を得まして、思考がさまざまに刺激されました。楽しかったです。
今日は、以上です。ごきげんよう。
==註==
* ワークプレイスデザインの第一人者です。仲隆介さんプロフィール
** 「集中力はいらない」だったと記憶しています。
***『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』とも重なりを感じました。私の感想はこのnoteに書きました。