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【日本神話⑮】邪馬台国への道~九州

 對馬國→一岐國→北部九州へ上陸します。

海の民の末盧國

 魏志・倭人伝には「また一海をわたること千余里で、末盧まつら国(=長崎県松浦、佐賀県名護屋、同県唐津付近)につく。四千余戸ある。山海に沿って居住する。草木が盛んに茂り、歩くと前の人が見えない。好んで魚やアワビを捕らえ、水は深くても浅くても、みな潜ってとる」

長崎県平戸市の平戸城天守から松浦市方面の眺め(2014年6月11日撮影)

 末盧國について、魏志・倭人伝では、これまでと違い、官職名は書かれていません。記述もこれだけ。漁法について特徴的な記述がみられ、釣りではなく海に潜っていることが書かれています。

福岡県糸島市の伊都国歴史博物館での末盧國展(2020年11月4日撮影)

 私はそこへは行っていないのですが、桜馬場遺跡が末盧國の王墓の有力地のようで、中原遺跡にも有力者の王墓群があるようです。鏡や銅剣、勾玉など豊富な出土物が得られたそうです。

末盧國のその後を紹介する同館の展示(同日撮影)

 末盧國の中心地だった唐津平野では、前方後円墳である久里双水古墳(佐賀県唐津市)の出現を根拠に大和王権の勢力下に置かれたと考えられています。

唐津市の肥前名護屋城博物館に展示されている模型(2014年6月11日撮影)

 末盧國=松浦といえば、平安から戦国期にかけての水軍・松浦党でも有名で、海の民として知られた土地です。隣接する唐津には、安土桃山時代に豊臣秀吉が行った「朝鮮出兵」の拠点となった肥前名護屋城があります。大陸侵攻を計画した際、秀吉の出身地(那古屋=名古屋)と同名の名護屋が選ばれたとのことですが、土地の形状、大陸への海路の都合も当然考えての選定だったのでしょう。対馬の清水山城、壱岐の勝本城も朝鮮出兵の出城となりました。この大陸へのルートは時代を超えて定番ですね。


女王国に属する伊都國

福岡県糸島市の伊都国歴史博物館にある伊都国と周辺の位置を示した模型。左上あたりの盆地が中心地(2020年11月4日撮影)

 末盧國を出ると、魏志・倭人伝には「東南に陸行五百里で伊都いと国(怡土=福岡県糸島市)につく。官を爾支にきといい、副官を泄馬觚しまこ柄渠觚へきこという。千余戸ある。代々、王がいるが、みな女王国(邪馬台国)に統属する。郡使が往来し、常駐の場所である」とあります。千余戸は少ないとの研究者の指摘があり、実際の規模を考えると一万戸の間違いではないかともいわれます。副官は2人いたようですね。

伊都国歴史博物館の外観(2020年11月4日撮影)
同館展示の銅剣のレプリカ(同日撮影)

 そして、「女王国に属す伊都国」というのがポイントになります。さらに魏志・倭人伝には「女王国より北には一大率を配置し、諸国を検察している。他の国々はこれを恐れはばかる。常に伊都国に常駐している」とあります。邪馬台国にとって重要な場所である証拠といえ、「一大率」という周辺地域を監視する役人が常駐していました。

博物館から眺める伊都国の中心地域(同日撮影)

 邪馬台国と伊都国の関係の深さを感じさせます。伊都国にも王がいたことから、同盟国という感じでしょうか。日本の古代史で中央政権における北部九州の出先機関といえば、大宰府とそこに設置された鴻臚館(外国使節を招いた官営施設)、防人さきもり=国境警備兵を思い浮かべます。大陸からの使者が必ず立ち寄る伊都国も、そういった外交の玄関口としての役割を担っていたと思われます。伊都国も、ある時代に女王がいたと私はTV番組だったか?で学んだ記憶があります。邪馬台国候補地からの発掘品で、伊都国との深いつながりが証明できるような発見があれば、有力な証拠となりそうですね。


金印を賜った奴國

福岡県春日市の「奴国の丘」。敷地内に奴国王墓もある(同日撮影)

 魏志・倭人伝に戻ります。「伊都國から東南の国(福岡県春日市、福岡市)まで百里。官を兕馬觚しまこといい、副官を卑奴母離ひなもりという。二万余戸ある」。記述はこれだけ。伊都國の一万戸を上回る大国ですが、詳述はなし。むしろ「後漢書・東夷伝」の方がエピソードとしては詳述されていて、日本史で必ず習う箇所ですね。

「奴國の丘」に設置された同国中心地と思われる須玖岡本遺跡の案内絵図(同日撮影)
上下とも奴国の丘歴史資料館の展示物(同日撮影)

 後漢書・東夷伝には「建武中元2年=紀元57年、後漢に貢物を持った使節が朝貢し、光武帝から『漢委奴国王』の金印を賜った」とあります。この金印が1784年(江戸時代)に海に面した志賀島から見つかりました。なぜ、そんな場所からなのかは不明です。かつて王墓があったのでしょうか?盗掘者の家か墓でもあったのでしょうか?発見者が偽りの報告をしたとか?

写真上下とも大阪府和泉市の府立弥生文化博物館展示の「漢委奴国王」の金印のレプリカ(2024年11月22日撮影)

 ちなみに金印の大きさは10円玉くらい。チロルチョコぐらいとしてもいいかな?想像以上に小さいです。使い方は朱肉をつけて紙にポンっと押すハンコ・・・ではなく、竹などに書いた文章を束ねたものや品物の「封印」として、粘土に押し当てて使います。これを「封泥ふうでい」といい、王の印である重要性や、封が閉じられてから破られていないことを示します。これは古代メソポタミア文明でよく見られる方式と同じだと思います。

弥生文化博物館の金印の使い方の説明(同日撮影)


奴國の東の不彌國

 奴國を出ると、「東行して不彌ふみ國まで百里。官を多模たぼといい、副官を卑奴母離という。千余戸ある」とだけ。奴國からは近いので、福岡県宇美町か同県福津市福間町か?という説があります。

行方が分からなくなる投馬國、そして邪馬台国へ・・・

 そして、ここから先が大問題ですね。不彌國から次は「南へ水行二十日」と、船に乗ったと思われる記述があり、随分と時間がかかって投馬とま國に着き、さらに南の邪馬台国には「水行十日、陸行一月」だそうです。これをそのまま地図に当てはめると、九州を越えた南東の海上になってしまい、魏志・倭人伝の記述が誤りであることは確か。なぜ肝心な所で筆者は間違えたのか!それゆえに邪馬台国がどこなのか論争に決着がつかないわけです。

 投馬國が分かれば、邪馬台国が九州内で完結するのか、近畿方面まで行くのかのヒントになりそうですが、それも2024年現在、候補地はいくつかあれども実証できておらず、推測の域を出ません。困っちゃいますね・・・。

 九州なら、佐賀の吉野ケ里、南九州は日向の西都、山陰なら出雲、近畿はいわずとしれた三輪・巻向の大和。同時代には大国が各地にあります。四国、山陽、東海、北陸・・・関東甲信、沖縄や東北押しの研究者・研究家もいるかもしれませんね。

 みんな知りたい・・・でも分からない・・・結論が欲しい・・・自説が否定されるから欲しくない・・・邪馬台国と初期大和王権は日本史最大の歴史ミステリーですね。

表紙の写真=伊都国歴史博物館の展示パネル(2020年11月4日撮影)





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